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【小説】それではまた、明日

「僕、ずっと不思議だったんですよね。よくドラマとかであるじゃないですか。主人公の周りにいる、優しくて何でも出来て浮気もしなさそうな人が結局振られちゃって、ちょっとわがままで強引でツンデレの人が最後に主人公 掻っ攫っていくみたいな展開」
さっき自販機で買った缶コーヒーを飲みながら不服そうに久留米さんが言った。

「ああ、ありますね」と、丸く太った月を見ながらぼんやり答える。
「辛いんですよね、あれ。僕は優しい人が幸せになれる世界が見たい」
「優しい人が幸せになれる世界…」と、久留米さんの言葉を繰り返す。
「だから好きなんです、佐川さんの小説が」
「え?」
「佐川さんの小説は、優しい人が幸せになるでしょ。いつも」

「ああ、はい。そうかもしれません」
と、小さな声で答えた。思わず口角が上がる。

確かに私の小説にはワガママな御曹司やツンデレな幼馴染どころか、嫌味な人や意地の悪い人も出てこない。ただ毎日を平穏に暮らしている優しい誰かの物語を書いている。
例えばこうして電車で気分が悪くなってしまった私の横に座って、ホームでただなんでもない話をしてくれる久留米さんのような人を題材にして。

「気分、どうですか?」
「ありがとうございます。だいぶよくなりました。ここからは一人で帰れます」
「分かりました。では、また」
電車に乗り込んでいく私を見送ったあと、久留米さんは丁寧に頭を下げて改札へ消えて行った。

「そういえば僕、言いましたっけ?佐川さんが好きだって」
久留米さんが突然そう言い出したのは、出版記念パーティーのあと、酔い覚ましに川沿いのベンチで話していた時だった。

「いえ、今初めて聞きました」
「ですよね」と言って久留米さんが笑う。川に映る月が綺麗な、よく晴れた夜だった。

「こないだふるさと納税で買った干物が届いたんですよ」
「干物?」
「はい、訳あり干物16枚セット」
「多っ」
「多いよね」と久留米さんがくすくす笑いながら繰り返す。

「それをね、一人で食べてたんです。夜。で、その時 気が付いたんです。佐川さんと一緒に食べたらもっと美味しいだろうなって」
「干物を?」
「はい。だから僕 佐川さんのこと好きなんだなあって」
「…なるほど」と、まるで人ごとのように頷く。到底 愛の告白を受けているとは思えない穏やかな空気で困る。

「あの…少しだけ、考えてもいいですか」
「もちろん。佐川さんから返事をもらうまで僕はこの線を超えません。絶対に」
久留米さんはそう言って、私たちが座っているベンチの真ん中に線をなぞるフリをした。久留米さんがそういうのなら、本当にそうなのだろう、と思う。

「では、今日のところは帰りましょうか」
久留米さんはそう言うと、一口だけ残っていたペットボトルの水を飲み干して立ち上がった。

久留米さんのことを好きか、と聞かれれば、好きだ。即答出来る。
それも人としてかなり好きだ。私が人生で接してきた人の中でも上位に入る。仕事も早いし人として信頼出来る。何より優しい。

でもそれは人と人としての関係だからではないか、と自答する。
もし恋人になって、もし久留米さんが今とは違う、獰猛な生き物になってしまったらどうしよう。好きだからと承諾してしまって、取り返しのつかないところまで情が湧いてしまったらどうしよう。

そもそも私は非婚主義者なのに、その気持ちを久留米さんが受け入れてくれなかったらどうしよう。今までの恋人のように。

もし別れてしまったとしても、私たちはまた仕事で顔を合わせることになる。そのとき私は今と同じように久留米さんと話せるだろうか。

と、そんなことをぐるぐると考えるだけで息が詰まる。
たしかに、久留米さんのことは好きだけれど。

「少し胸がざわつきました」と正直に言った。
久留米さんがイラストを担当しているWEB CMの広告担当者が女性に代わったという話を聞いた。そしてその女性が久留米さんに好意を抱いている、と。

「私がウジウジこうしてる間に久留米さんに恋人が出来たとしても何にも言えないなって分かってるんですけど、やっぱり胸がざわつきました」

そう白状すると、久留米さんが眉間に皺を寄せて、首を傾げた。

「僕は佐川さんのことが好きなのに、どうして他の女性と付き合うという想像になるんですか」
「なんでって。でも彼女に面と向かって好きだって言われたら分かりませんよね」
「たしかに、未来は保障出来ません。何があるか分からないし僕だって他の人と付き合うかもしれない。一生好きでいるって誓ったって別れることも往々にしてあります」
「ほら」
「だけど、僕は、今、佐川さんが好きなんです」
「でも、普通は」
「普通云々ではなく、僕の言葉を聞いてください」

「僕は、今、あなたが好きなんです。あなたから返事をもらうまで、きっと踏ん切りはつきません。もし僕がまた恋をするなら、あなたに振られた後です」
「…振るとは、言ってません」と、咄嗟に言葉が飛び出した。

多分、とっくに答えは出ていたのに、私はただ踏ん切りがつかなかっただけだ。最後の一歩を踏み出すと始まってしまうことが怖くて、答えが出ていないふりをした。そのくせご立派に嫉妬なんかして。

「つまり、もう返事を聞いてもいいってことですか?」
久留米さんはまるで就活の質問でもするかのように淡々と言う。

「はい、私も気が付いたので」
「佐川さん、僕のこと、好きですか」
「はい」
「それは良かった」と、久留米さんがいつもの調子で笑った。

今この瞬間、私たちは恋人同士になったということで合っていますか、とは恥ずかしくて聞けなかった。

どうしていいか分からなくて目をきょろきょろさせていると、久留米さんが「佐川さん」と私の名前を呼んだ。

「はい」
「来週の火曜日、打ち合わせのあと空いてますか」
「ええと、はい」
「では、その日 ご飯行きませんか。一緒に」
「あ、はい」

私がぼやっとしている間に次の予定が決まっていた。
「では、また火曜日に」と、久留米さんが言う。

帰り道、気が付くと頬がニヤけてしまうので、私は灼熱の太陽の中、マスクを鼻まできっちり被せていつもより早足で帰路についた。

「結婚願望はありますか」
そう意地の悪いことを聞いたのは、久留米さんが私から離れて行かないか先手を打って確認しておきたかったからだ。

「んー、昔は憧れたこともあったけど。僕が小さい頃って大人になったら結婚するのが当たり前みたいな風潮だったから。でもそれってたかだか一般論じゃないですか。僕ではない世間の誰かの。それで僕、気が付いたんです。僕は結婚がしたいんじゃなくって、僕と僕の周りの人たちと幸せでいたいだけなんだなって。出来るだけ長い時間」
「…そっか」と、その答えに少しだけホッとする。

「僕は幸せですよ。今。そりゃ未来はどうなるか分からないけど、今の僕はかなり幸せです。それは確か」

久留米さんと話していると、永遠を誓う人より、未来は何が起きるか分からないと言ってくれる人の方が、よほど信頼出来ることに気付く。

「僕は人に誇れるものなんて無いし、結構色んなことを諦めてきたし挫折もしたし、傷つけてしまった人もいるけど、でも自分の人生も今の自分のことも結構好きなんです」

窓の外を見ると青々とした空に、入道雲が一直線に伸びていた。
太陽が反射して眩しい。

「多分 それは僕がいつも幸せだって思いながら生きてきたから。だからこれからもそうやって生きていければ、いい」

そこで頼んでいたフルーツタルトが運ばれてきて、久留米さんが心底嬉しそうに笑った。

「半分こしましょう。めちゃくちゃ美味しいから、これ」

その笑顔に釣られて思わず私も笑ってしまう。
同時にどっちでもいいなと気付く。結婚してもしなくても、多分どっちでもいい。どの道を選んでもいい。そのとき、自分が幸せだと思う道を選べばいい。昨日と考えが変わったっていい。過去の自分では選ばなかった答えを選んだっていい。固定観念や雑音に惑わされずに、ただ自分の幸せだけを見つめてもいい。

だからどうかこの先も、私と私の大切な人たちが幸せでいられる時間が、少しでも長くありますように。

差し出されたフルーツタルトを食べながら、ぼんやりとそう空に願う。

(fin)


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