マンションのエレベーターにて。
田舎に住んでいたときの私の実家は一戸建てで、となり近所の人ともよく会話した。
小学生のときに学校を終えて家に帰れば、隣に住んでいる細川さんというおばさまが「あら、ダーキちゃんおかえり」と言ってくれるので、
「ただいま~!」
と言って、カバンを家にぶん投げて遊びに行く。
大人になって、一人暮らしを始めた時に感じたのは、同じマンションの住人と会ってしまったときの接し方がわからない、である。
距離感がわからないのだ。
あまりエレベーターで誰かといっしょになることはないけれど、フロアで誰かと鉢合わせたときには少しドキッとする。
聞くところによると、女性の場合、自分の住んでいる階がバレるのが嫌なので、エレベーターに一緒に乗ることを回避するために、隠れたりもするらしい。防犯上、仕方がないことと思える。
私はマンションに住んでいるが、エレベーターで誰かに鉢合わせすることが、たまにある。
そのたびに距離感がわからないので、微妙な空気になるのだけど、いつからか昔の細川のおばさまを思い出しては「こんばんは!」とか「おはようございます!」だとかを、押しつけにならない絶妙な加減の元気をもって言うようにしている。
が、その返答はさまざまである。
「う~っす」とか「こ、こんにちは」と言ってくれる人もいれば「……」と、フルシカトする人もいる。
…
昨晩21時ごろ、仕事を終えて自宅マンションに帰った私は、エレベーターに乗ろうとした。
エレベーターの前には、すでに男性が立っていた。これまで見たことのない眼鏡の男性であった。私よりは年上に見える。
一応言ってみた。
「こんばんは~」
そう言うと、彼はこちらをチラリとみて「こんばんは」と、これまた絶妙なトーンで返してくれたから、
(あぁ、シカトされなくてよかった)
と思いながら、2人でエレベーターに乗り込む。
行先の階数ボタンをそれぞれ押した。
彼は私よりも下の階のボタンを押した。
つまり、先に降りるのは彼である。
エレベーターの階数表示を2人で眺める。
1階、2階、3階…
やがて彼が降りる階についた。
たいていの人は無言で降りていくか、少し優しい人だと小声で、「おつかれさまで~す」とか言ってくれるもので、私はこの人が何か言うのかなと思いながら、つっ立っていた。
その降り際、彼に言われた。
「おやすみなっしゃ~~~い」
でっかい声で言われた。こちらを振り返ることもなく言われた。エレベーターの中には私しかいなかったから、彼はきっと私に言ってる。私しかいないもん。
おやすみなしゃい? そりゃそうだ。だって夜だし、このあと家に着いたら、たしかに寝るから、おやすみなさいで合ってる。
でも、同じマンションの住人からおやすみなさいと言われたのは初めてだった。おやすみなさいを言われたことがないのだから、当然、おやすみなっしゃ~いも初めて。
一瞬の沈黙のあと、私もすぐに言った。
「お、お、おやすみなしゃ~い!」
昨日は、よく眠れた。
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