もしも、明日死ぬとしたら。
という気持ちで毎日を過ごそう、とiPhoneを作った人は言ったけれど、実際にそんな気持ちで生きることができるかというと、きっとむつかしい。
事実、私はそんな気持ちで生きてはいない。
そんな自分だったらいいな、と思って生きている。
今日が人生最後の1日だと思って、悔いのないように、やりたいことをやろう、と思いたい。けれど、今日はその最後の日ではないと思っているし、明日も人生が続くと思って生きている。
生命保険の仕事をやっていたときは、お客様に「万が一のことが起きたときは」ということを心から言っていたけれど、目の前のお客様が本当に世を捨てることになるだなんて、想像もできなかった。一生懸命想像していたけれど。
いわんや我が身をや、である。
自分の身に万が一のことが起きるなどとは想像もできない。いや、想像はできるのだけど、周囲の人が持つであろう感情だとか、その後の影響までは想像がつかない。つきそうでつかない。
私がもしも明日死ぬとしたら、
どうするだろうか。
明日死ぬとわかっていたらどうするだろう。
…
親に会いに行く。
おばあちゃんに会いに行く。
兄妹に会いに行く。
先祖のお墓にも行く。
妻にもお別れを言う。
それから妻とおいしいものを食べる。
焼肉かな、お寿司かな。
妻の好きな物を選んであげたい。
全てを受け入れた妻はきっと、泣きながら私の好きな物を食べさせてくれると思うけど、それでも妻がおいしく何かを食べる姿をこの目に焼き付けたい。
妻は泣かないかもしれないな。
父さんと母さんにはなんと言うだろうか。
妹たちと弟には何を伝えるだろうか。
もしも、明日死ぬとわかっていたとしたら。
私が持っている腕時計は手巻き式だから、修理しながら永遠に使ってくれと頼むと思う。だれに頼むかはわからない。
私に子どもがいるのなら、子どもに使ってほしい。その次の世代、さらにその先の世代でも使ってほしい。21歳のときにそう思ったから、そういう腕時計をしている。
こうやって書く時点で、私の人生における腕時計は重要な役回りなのかもしれない。
それから、もしも明日死ぬとしたら、今日の仕事はしない。
残念ながら、ぜんぶ投げ出す。
仕事よりも大切なことがたしかにあると誰もが知っている。
よくないけど全部投げ出して、思い出を語る1日にする。未来を語る1日にする。私がいなくなった後の世界でどう生きてほしいか、伝えるべき人に伝えたい。
「24時間では足りないね」と笑いたい。
そして、このnoteの存在を妻に話したい。
500にせまる文章を書いてきた。
遠くにいるだれかのおなぐさめになればと思って書いてきた。ラジオもそうだ。私の声がデータとして残っている。最初は不特定多数のだれかに届けばいいと思って書いていたけれど、いつのまにか、ごく近い人に向けて書くようになった。
近くにいる人を勇気づけたくて書いている。
それが遠くにいるどなたかの勇気になったり、日常の瑣末なことを忘れられるひとときになればいい、と願って書いている。心から願っている。
この1年、どんな気持ちだったのか。
どんなことを伝えたいのかは書いてきたつもりである。
いつだったか勇敢なヘラジカさんが「イトーさんの文章は百年後も読まれる」とおっしゃってくれた。私だけじゃない。ここにいる全員の文章はもれなく残る。百年残る。
私はたぶん、明日も死なない。
そう確信しているから、noteの存在は妻には言わない。親、兄妹はこれを知っているから、妻に伝えてくれるさ。
私はたぶん、明日も死なない。
だから、今日の夜も、家に帰ったら、
妻と一緒にご飯を食べたい。
「今日もおいしいね」って毎日言いたい。
愛してるよ、とニコニコして妻に言いたいし、
近くのみんなにも、そう言いたい。
それで、明日に希望をもって眠りにつきたい。
明日、死ぬと本気で思って毎日を過ごすことができれば、どれだけ周りにやさしくなれるだろうなぁ。
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