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33歳の私が世界史を学び直す理由。

数日前、世間はコロンブスがうんたらかんたらと騒いでいた。この記事で例のMV問題には触れない。

その代わりこの記事では宗教について触れる。ガチ宗教勢からぶっ叩かれないか心配なんやで。

コロンブスは新大陸に到達した開拓者みたいな扱いではすでにない。あれは侵略者であり、先住民を虐殺、奴隷化した悪鬼の象徴。先日の騒動はこれを知ってたか知らなかったかが問題の焦点らしい。

関係ないけどむかし、コロンブスについての記事を書いたなぁ。

......

...

ところで疑問が湧かないだろうか?

コロンブスたちはなぜ、同じ人間である先住民たちを躊躇なく虐殺できたのか? 大航海時代のヨーロッパの人たちはなぜ躊躇なく黒人を奴隷にできたのか。同じ人間だぞ? そこにメンタルブロックはなかったのか?

コロンブス


なかったらしい。

おかしい。

それはなぜなのか?

現代の感覚と逸脱しているじゃないか。


同じ人間を喜んで殺したり、言うことを聞かないなら腕を切り落としたり、ミチミチの船に積んだ奴隷が死ねば海にポイ捨てするというのは、普通の感覚ではない。

大事なことだからもう一度言う。

これは普通の感覚ではない。



では、なぜそんなことができたのか?


答えはただひとつ。

当時のヨーロッパ人たちは、異教徒を人間だと思っていなかったから。

※その詳細はこの記事のコメント欄に記載。

それはなぜだろうか?

いったいどういうことだろうか?

これを理解すると、現代の差別問題も理解できるようになる。


さあ、本編に入ろう。

アレクサンダー大王だっ!

33歳の私が世界史を学び直す理由


[1]なぜ世界史を学び直しているのか?


いま世界史を勉強し直している。例のコロンブス問題が出る前から勉強している。別に試験があるわけでもないんだけど勉強している。これがおもしろい。

高校時代は日本史を専攻していて、共通センター試験も日本史で受験した。当時なぜ日本史を選んだかというと、日本という1つの国の歴史を学習するだけでOKだと思ったからだ。

世界史となると、あらゆる国の歴史を横断的に勉強する必要がある。当時の私はこれはちょっとキツイと感じた。日本史のほうがイージーだと思ったわけである。おかげでセンター試験の日本史はえっへん96点だった。点数を覚えているあたりが受験戦士の名残である。

そんな私がいま世界史を学び直している。33歳になってなぜ改めて世界史を勉強し直そうと思ったか。


「文章を書く」という行為の成り立ちと未来について考えたいから。

みんな読め〜!


現代は個人が文章を書き、気軽にインターネット上に公開できる。その歴史はまだ20年そこらだ。ブログサービスが登場して、noteが登場して数年だが、現代は誰でも文章を書いて発信できる時代になった。

私を含め、鬱屈とした何かを抱えてきた個人は、水を得た魚のごとく文章を書いて発信している。

この行為は世界の歴史的にみて、どういう現象なのだろう? というのが気になった。

かつて個人が文章を書き、それを発信するという時代はあったのか? もしあったとすれば、この現象の行き着く先はどこなのか? 現代の私たちはどうすればいいのか? それを歴史から学んでみたい。

「印刷できるようになりましたわ〜」

「えぐーーーーーーーーーー!!!」


文章を書く、という行為を研究するとき、なぜか調べるのは「文章の書き方」である。どうしたら読まれるか、どうしたら行動を喚起できるか、どうしたら多数の支持者が得られるか。私たちはこういうことを調べ学ぶ。

しかし、これだとせまい。

歴史が浅いからだ。

「文章」という世界だけで文章を見ているからだ。

もっと体系立てて、それがなぜなのか、過去に同じことをやった人はいないか、一見すると文章とは関係のない人間の営み、本能を知りたい。


いま、世界史をイチから学び直しているのだけど、その学習法を大まかに記しておきたい。


・世界史の全体感を掴む
・別のコンテンツでさらに全体感を掴む
・さらに別のコンテンツで「なぜ」を掴む
・個人の動きにフォーカスを当てる
・地政学、宗教学、経済学で深掘りする
・頭の中で現代に紐づける


私が世界史を学び直す理由。


それは「文章を書く」という行為の歴史上の意義を探りたいからだ。


そして調べていると世界史には興味深い傾向があることを自分の中で見出した。みんな発見してると思うけど。


[2]世界史を学ぶと「宗教」に行き着く?


まだ文章を書く、という事象については調べない。世界史の中のどこかでそれは出てくる。知りたいのは人間の営み。

学んでいて興味深かったのは、「宗教」の強さである。そして宗教について学ぶことはそのまま「文章」の拡散に通じる何かがあるのではないかと踏んでいる。

代表的な宗教といえばキリスト教、イスラム教、ユダヤ教。そこに仏教、ヒンドゥー教が加わる。


それがなぜ勃興したのか、なぜ広まったのか、誰が広めたのか、なぜ衝突するのか。

そもそもなぜ世界中の国々は「宗教」と密接に関係しているのか? なぜだ?

時の為政者は国を支配するためにいつも宗教を利用してきた。日本なら聖徳太子も聖武天皇も。なぜか?

都合がよかったからだ。


[3]宗教はなぜ為政者に都合がいいのか?


なぜ宗教は為政者にとって都合がいいのか?


キリスト教もイスラム教もユダヤ教も基本的には一神教である。神はただ1人しかいない。国を支配するうえで、唯一神の存在は都合がいいのだ。

一神教の対義語は多神教である。多神教は神がたくさんいる。ギリシャ神話、ヒンドゥー教、それから日本の神道がこれにあたる。エブリシング神だ。日本の八百万の神信仰については昔書いた。



多神教になると信仰のパワーが弱まる。人々が信じるものが分散されるからだ。

国を支配するためには強烈なパワーを持った共通の誰かが必要になる。キリスト教ならイエス、イスラム教ならアッラー、ユダヤ教ならヤハウェ。


一神教の国々はとにかくパワーが強い。それは現代の中東地域を見れば明らかだ。

逆に日本は八百万エブリシング 神だからパワーが分散される。結果的にどこか優しい国民性になる。信じる物は人それぞれですよね、となり攻撃的にならない。多神教の特徴だ。

一神教はその逆だ。

彼らは残念ながら異教徒を弾圧してきた。なぜなら自分たちが唯一無二と信じているものを、他の誰かが信じていないというのは受け入れ難いから。



そして、その中における「文章」について。


宗教それぞれに聖書、教典があり、そこには必ず文章が存在する。

私の知りたい「文章」の秘密がありそうだぞ?


[4]コロンブスも「宗教」で説明できる?


宗教と文章について書きたいのだけど、実はまだそこまで学習が及んでいない(ごめんね)。

しかしながら学んでいておもしろかったのは、宗教のおこりを地政学で考えるとおもしろいということで。

なるほど、「文章」から一旦離れちゃったんだな。


地政学ときた。

それはたとえば、

イスラム教は豚肉を食べない。お酒も禁止されている。それから、女性は肌を見せないなどの厳しい決まりがある。それはなぜなのか。

ヒントは聖地メッカの気候特性にある。

※理由はコメント欄をチェック

このイメージ


それから、

ヨーロッパはキリスト教がほとんど。たまたま話題のコロンブスは新大陸に到達したし、ピサロはインカをぶっ壊し、コルテスはアステカ文明を無惨にも破壊した。

彼らは同じ人間のはずなのに、現地民を虐殺し、奴隷として動物のように扱った。なぜそんなことができたのか? 普通に考えればおかしい。同じ人間なのにメンタルブロックはなかったのか? 

なかったのだ。

ヒントはキリスト教の仕組みにある。

※理由はコメント欄をチェック

なぜそんな酷いことができた?


それから、

仏教には輪廻転生の概念がある。なのに、キリスト教とイスラム教とユダヤ教にはその概念がない。

私たち日本人からすれば当たり前の輪廻転生の概念。それが本当とは信じていないのに、なぜか心のどこかで生まれ変わりを考えることがある。日本人が仏教の思想に影響を受けているからだ。

では、なぜ仏教には輪廻転生の概念があるのか。

ヒントは仏教がおこった地理要因にある。

※理由はコメント欄をチェック

万物は巡る


おもしろすぎて鼻血が出そうだ。


[5]この世界と文章


世界史を学び直してまだ1週間くらい。

文章を書く、という行為についての話、その未来についての結論はまだ出ていない。

もしかすると世界史ではなく日本史にヒントがあるかもしれない。

なぜ紫式部と清少納言だけが千年の時を超えているのか。貧窮問答歌は結局役人が作ったもの。万葉集には天皇から農民までのうたが刻まれている。ならばどのようにして庶民の詠は万葉集に載るに至ったのか。


貴族社会の教養だった「文章」はどのように庶民に広まったのか、その行き着く先は?


インターネットがないころ、あるいは紙すらないころ、人は「」にその想いを託した。石に文字を刻む。めちゃくちゃめんどくさい。それでも太古の人類は石に想いを刻んだ。

ロゼッタ〜


やがて文字を刻む媒体は石から紙になった。

最後の最後で世界史とは関係がなくなるけれど、

紙に書かれた文章のうち、個人的に興味深いと思うのは「ヴォイニッチ手稿」である。

1912年にイタリアで発見されたこのメモ書きは、謎の文字列と謎のイラストであふれた構成になっており、何が書かれているのかは現代にいたるまできちんと解読されていない。

なんだこれ?

個人的にはこれ、当時の人の「イタズラ」だと思っている。解読不明にも関わらず、その文字列は規則的でイラストも真に迫るものがあるヴォイニッチ手稿。絶妙に厨二心をくすぐる。


仮にこれがイタズラではないとしたら、書いた人間は何かしらを世の中に残したいと考えたはずである。



この感じ、「文章を書きたい」「誰かに見てほしい」「おもしろいと思うものを共有したい」と願う現代の私たちに通じるものがある。


物事の伝達手段は石から紙、紙からインターネットに変わった。私ならばこのnoteだ。私がnoteを書く理由は「私の思想を我が子に残すため」である。いかにも宗教的であり世界史ヴォイニッチ的じゃないか。


私たち人間にはどうしようもなく伝えたい「何か」があり、それを伝達するための手段は「文字」すなわち「文章」である。

そしてそれは宗教の拡散にも使われたはずだ。キリスト教とユダヤ教でいえば旧約聖書と新約聖書。イスラム教でいえばコーラン。


そう、どこまでいっても「文章」なのだ。


歴史から学ぶとおもしろい、とよく言うけれど、それは真実だと思う。


世界史を学び直してまだ4日。

ここからどうなるか楽しみだ。

※本文で述べた「宗教」のなぜ? の理由はコメント欄に記載。

<あとがき>
世界史全体の流れを見ていると、オスマントルコ帝国とローマ帝国、それからモンゴル帝国が愉快です。中国は国家がコロコロ変わっているからこそ、習近平は何かを成し遂げたいと思っていたり、ロシアのプーチンはピョートル大帝に憧れているみたいなことがわかってきます。高校時代は世界史ってフランス革命がすべてだと思っていたのになぁ。今日も最後までありがとうございました。

【関連】私のラジオで日本史についての配信

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