春が死ぬまでの話。
春に殺されそうになったことがある。
どうやって殺されそうになったかというと、左手首に噛みつかれてブンブン振り回され、それでたくさんの血が出たのだ。11歳のときだった。もうおしまいだと思った。
小学校2年生の冬に我が家にやってきた犬は、母が「早く春がくるように」ということで名前を春とした。春と書いてハル。
そういや同じ「春」という名前の登場人物が出てくる作品といえば伊坂幸太郎の『重力ピエロ』があり、その一行目は「春が2階から落ちてきた」。
とても文学的だと思ったもので。
私の場合は春に殺されそうになったことがある。
春は雑種の犬だった。
小学校2年生の私があと先何も考えずに「犬がほしい!」と、ねだった。春は女の子で、たしか小樽の銭湯かどこかで飼われていた犬の子ども。春のほかに兄妹が3匹いると聞いていた。
今になって思えば、春は雑種で、毛並みと顔こそ美しかったがやはり雑種で、いかにも当時の我が家に来るにふさわしい。雑種だから。
チワワやポメラニアン、ゴールデンレトリーバー、セントバーナードみたいな小綺麗な犬には手が届かないし、我が家は選ばれもしない。
小学校3年生のときに、隣の家で飼われていたアメリカンコッカースパニエルの「プー」を我が家で1日だけ預かったことがあった。
あの犬の名前は「プー」なのに、純血の血統書付きでお高くとまっていた。
そんなことを、母が言ってたのか誰が言ってたのか忘れたが、小さな私はプーをこのまま永遠に拉致したろかなと思ってた。もちろんお返ししたけど。
春は春らしく我が家らしい雑種だから、私たちの言うことを全く聞かなかった。父と母の言うことはもちろん聞くのだけど、私を含めた4人の兄妹のことは基本的に下に見ていた。
はじめて春が我が家に来たとき私は7歳。それから6歳の妹、4歳の妹、3歳の弟、そして0歳の春である。あいつが初めて漏らしたおしっこは、私が拭いたんだ。
春は私たちを徹頭徹尾舐め腐っていた。
「春!」と呼んでもこっちにくることはないし、一緒に寝ることもない。気に入らないことがあったら噛み付いてくる。
どの犬もそうだが、あいつは散歩が好きで。
田舎だったから近くのだだっ広い公園に行き、首輪も全て外して離すと春はどこまでも遠くへ行く。
「もう帰ってくんなよ〜」と言っても帰ってくるのが憎い。ボールをぶん投げると勢いよく走る。茶色い雑種がクソ田舎の公園を走る。
春、俺は疲れた、もう帰ろう。
あるとき、私が散歩に連れていくために春の首輪にリードをつけようとしたところ、グルルルルと威嚇されたことがあった。
これはよくあることで、あいつは雑種だし、私たちのことは舐めていたから、そもそもほとんど触らせてもらえない。少しでも触ろうものなら「ギャウッ」と噛んでくる。雑種だから。
散歩のときだけは特別で、あいつは散歩が好きだったから、喜び、飛び跳ねながら家を出るときを待つ。なのに首輪にリードをつけるときは一転ガルルルルル。
小学校5年生、11歳のときにお父さんに相談した。すると父は「それは舐められてるんだ。お前のほうが下だと思われてるんだ。犬は順位づけをするからな」なんてわけわからんこと言ってて。
「だから今度春が威嚇してきたら、首根っこを掴んでやれ。そしたらダーキのほうが上なんだって認識するだろうからな」
お父さんが言うならそうなんだろうということで、当時の私は春以下の脳みそだったんだと思う。春に威嚇され、父のアドバイスを思い出し早速実行してみた。コラっ! 春!
すると、春は勢いよく私に飛びかかってきて、左手首に噛みつき、まるで親の仇、なんならいないはずの子の仇とばかりに私の左手首をガッチリ牙でホールドして離さずブンブン振り回す。
突然のことで私は「どわああああああ!」と言うしかなく「は、は、離せ〜!」と叫ぶと春は「あ、やべ」みたいな顔で部屋の奥にトンヅラこきやがる。
それで左手首を見てみると、綺麗に深いところまで穴が空いていて、血がダラダラと流れ、あと数センチ違えば割と取り返しがつかなかったんじゃね? みたいなケガになった。
この傷跡はいまでも私の左手首に残っているのだが、その傷跡をみても特に春を思い出すこともない。雑種だし。
春はたしか17歳だったか18歳だったか19歳だったかまで生きた。私は当時24歳くらいで実家の近くに一人暮らしをしていて。
春がもうヨボヨボになって毛並みも汚く、オムツをし、誰かを噛む元気もないことは知っていた。
実家に遊びにいくとソファの上でオムツをして横になっている春をなでても、あの人はもう威嚇する元気もない。
母から連絡がきたのは平日の早朝で、私は仕事に行く必要があったのだけど、急ぎ自転車で実家へ飛んだ。朝7時台だったか8時台だったと思う。
リビングに飛び込んで「春は!?」と尋ねると、春は床に敷かれた布団の上に横たわり、ゆっくりと呼吸をしていた。目は開いていなかった。
春の周りには私の妹2人と弟がいて、身体をさすっている。春は私たち兄妹にとっては末っ子みたいなもんだから。
そこに長男であるスーツの私も加わって「おぉ春、あぁ春、苦しくないか、怖くないか」と静かに静かに話しかける。
それで時間になって、春のすべてが終わって、私だけが仕事に向かった。仕事に間に合うように一生懸命自転車をこいだ。こぎにこいだ。
あとで聞いた話だが、春を燃やすためにきたペット用の火葬の車があって、それが家の前にとまって春を燃やしているあいだ、私の弟はその車にもたれかかって泣き崩れていたらしい。あいつもよく春に噛まれたのに。
私の弟は私よりもセンチなところがあるから、感傷にひたれるタイプだ。妹がそんな話をニヤつきながらしていて、あいつらしいなと言う。
そうして春は死んじゃった。
春がどんな声だったかはもう思い出せないけど、どんな顔だったかはすぐに思い出せる。
左手首を噛まれたときの痛みは忘れたけど、その傷跡を見るたび、意識をすれば春を思い出せる。
愛すべき雑種の、私たちの生意気な末っ子。
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