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少年とお殿様ー『養生訓』と『丙午封事』

こんにちは、ぱんだごろごろです。
noteの場をお借りして、今週の月曜日から書き続けてきた
三浦梅園ウィーク、今日で最終稿です。
一週間お付き合い下さって、ありがとうございました。

少年とお殿様ー『養生訓』と『丙午封事』


梅園先生の著述物の中には、ある特定の人に宛てて書いたものが、いくつか存在します。
「多賀墨卿君にこたふる書」
のような手紙文もそうですし、何かあるごとに、漢詩を作って相手に贈ることも、多かったようです。
ここで取り上げるのは、医師の梅園先生が、ある少年の健康と長寿を願って書いた、『養生訓』と、
藩主、松平親賢公からの要請に応えて書いた、藩政に関する政策提言書、『丙午封事』です。

杵築藩の豪商荒巻家の当主は、代々短命であることで知られていました。
富裕な一族でありながら、皆若くして亡くなってしまうのです。
梅園先生は、荒巻家の代々の当主たちとは、顔見知り程度の付き合いでしたが、ある日、ご城下に出た際に、友人から、荒巻家の当主だという少年に引き合わされます。
少年はまだ十一歳ほどの子どもでありながら、前年に父を亡くし、家督を継いでいたのでした。
友人は、梅園先生の力をもってすれば、この少年を、短命で終わる呪いから、解き放つことができるのでは、と期待していたのでしょう。
梅園先生は、この日会った少年のために、一冊の本を書き著しました。
それが、『養生訓』です。
医師としての梅園先生は、健康を損ねる行為を挙げてそれらを禁じ、逆にどうしたら健康を保てるかを説きました。
それは、一言で言ってしまえば、山村に住む貧しい人たちのように暮らすこと。
使用人もなく、乗り物もないところで、自分の身体を動かし、自分の足で歩くことでした。貧しい暮らしなら、食べ過ぎや飲み過ぎの弊害も起こりません。
また、それだけではなく、「外の養生」、外から来る、思いがけない災難に対する備えの必要性も説いています。
荒巻少年と梅園先生との交流は、少年が大人になってからも続きました。
梅園先生は、この楠屋為右衛門(荒巻雅陳)に、富裕な者は、社会に対する責任を負う、ということを教えました。
大人になった彼は、梅園先生の教えを守っていたようです。
享年四十八歳。
短命で知られる家に生まれた荒巻雅陳少年は、青年となり、壮年と言われる年齢まで生き抜いたのでした。


『丙午封事』は、梅園先生が、杵築藩の若き藩主(三十二歳)である、松平親賢公のために書いた、政治意見書です。
国を治めるために、梅園先生が必要だと思われたことが、事細かに書かれています。
富国の策から軍国の用まで、分けても民の事情に通じることが肝要と述べています。
もともと梅園先生の名声を耳にしていた親賢公は、梅園先生に相談役になって欲しかったのでしょう。
が、その高齢にも遠慮して、いつでもいいから、城下に来ることがあったら、城に寄って欲しいとのお言葉でした。
梅園先生六十四歳のとき、その機会が訪れ、梅園先生は、藩主にお目通りしたのです。
この度の謁見は、三日間に渡りました。
予め、『丙午封事』を上げてあったことから、この三日間は、『丙午封事』の内容に関する、具体的な話し合いがなされたものと思われます。
親賢公の梅園先生に対するもてなしは、厚いものでした。
梅園先生から、長女の類子の夫、安東貞五郎へ宛てた手紙を、田口正治先生が『三浦梅園』の中で紹介していますが、
お殿様は上下かみしもの肩衣を取って、はかまばかりになり、自分も十徳じっとく(医者の着る服装)を脱いで、夏羽織になって、お話しをした、とあります。
出された食事の内容や、お茶やお茶菓子を頂戴したことまで、詳しく書いてあります。
このことをお類に話して伝えてやって下さい、と書いてあるところを見ると、この殿様と過ごした三日間は、梅園先生にとっても名誉な三日間だったのであろうと思うのです。
親賢公は、この後、家老に、『江戸の先生は、日本一と思っていたが、安貞(梅園)に会ってみれば、また一段上である』と語ったそうです。
ただ、梅園先生としては、なかなか親賢公が、自分の申し上げた政策通りに実行されない、というところにやきもきされていたようです。
門人の綾部輔之あやべすけゆき(梅園先生の少年時代の恩師、綾部綗斎の孫)と小串仙介は、近侍として、参勤のために、親賢公に付いて江戸に行きました。
二人が帰って来てから、梅園先生は、綾部輔之に、側近として、親賢公をしっかり補佐するように、殿に「下情を達する」ようにと、念を押しています。

杵築市には、かつての藩校である「学習館」の藩主御成門が、今でも残っているそうです。
この「学習館」は、士族の子弟だけでなく、平民の子弟も通うのを許されていたのだとか。
創立は、1788年。
梅園先生の亡くなる前の年です。
親賢公が、三浦梅園の進言を受けて作った、と言われています。
教授は、梅園先生の長男の黄鶴、神童と言われた、門人の矢野毅卿(黄鶴の娘婿)らが勤めました。
この藩校からは、数多のすぐれた人材が輩出したそうです。
梅園先生の志は、しっかりと親賢公に届いていたのです。


今週のトロフィーとお祝いボード


今週はトロフィーが二つとお祝いボードが一つの、合計三つを頂きました。

以下は、その画像と、対象となった記事です。
スキを付けてくださった皆様、ありがとうございました。

今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
梅園原稿、ようやく仕上がりました。
これから推敲にかかります。
皆様、楽しい日曜日をお過ごしくださいね。


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