「酸っぱいぶどう」も悪くない⁉
こんにちは、ぱんだごろごろです。
今日は、ふとしたことで、
今まで思っていたこととは、違う考え方をするようになった、
という体験について、お話ししたいと思います。
酸っぱいぶどう
「イソップ寓話集」に、「酸っぱいぶどう」というお話があります。
ある日、お腹をすかせた狐が歩いていると、おいしそうな葡萄を見つけました。
何とか取って食べようと、懸命に跳び上がりますが、葡萄は高い場所にあって、届きません。
さんざん跳んだあげく、とうとう手に入れられないと悟った狐は、
「ふん、美味しそうに見えても、どうせあの葡萄は、酸っぱいに決まっているさ」
と、捨て台詞を言って、立ち去りました。
という内容のものです。
このお話の寓意は、「負け惜しみ」だと言われています。
手に入らないものが、どんなに美味しいだろうと思うと、それは未練に変わりますが、
どうせ酸っぱいだろうと思えば、手に入らなくても惜しくはありません。
社内の選抜試験に落ちた時、
「どうせ受かっても、その後、上手くいくとは限らなかったんだし」
と自分で自分をなぐさめながら、
「これって、負け惜しみだよね」
と思うと、
「負け惜しみって、かっこ悪いよなぁ」
しみじみ感じる自分がいました。
そんなこんなで、私の中では、
「酸っぱいぶどう」=「負け惜しみ」=「かっこ悪い」
という図式ができ、
「かっこ悪いことはしたくない」=「負け惜しみ(=合理化、正当化)はしない」
という方程式ができ上がったのです。
本当に酸っぱかったのでは?
「酸っぱいぶどう」は、後ろ向きの言葉、と思っていた私ですが、
最近、あることから、
「美味しそうに見える葡萄は、本当に酸っぱかったのではないだろうか」
と思うようになりました。
小さなティッシュボックス
そのきっかけとなったのは、偶然隣り合わせた人が持っていた、小さな立方体の、ティッシュペーパーボックスでした。
とても可愛らしい柄の箱で、
ポケットティッシュよりも量が多く、
ふつうのティッシュペーパーの箱の半分くらいのそれは、
持ち運びも容易で、なおかつ使いでもある、
花粉症の私にとって、理想的なティッシュボックスに見えました。
私は、とっさに、
「同じ物が欲しい」と思ったのですが、
「待てよ」と考えました。
あの大きさでは、何日も保たずに、ティッシュはなくなってしまうでしょう。
そうしたら、あの可愛い箱は用済みです。
立方体の、特殊な形をしたレフィルを見つけて買って来ない限り、
あの箱は捨てるしかありません。
そう思ったとたん、私の気持ちは、萎えたのでした。
そこまでして買ってこなくても、ポケットティッシュもボックスティッシュも、たくさん持ってるわ、私・・・。
私は、自分が正気に返ったような気がしました。
ただ、見た目で、欲しい、という欲望を抱いたのですが、
小型の箱だから、中身がすぐになくなる、という、
手に入れた後のことを考えたら、欲がおさまったのでした。
どうせ、すぐになくなってしまう。
美味しそうに見えても、案外、食べたら、酸っぱいかもしれない。
レターボックス
以前は、レターボックスを見ると、買わずにはいられなかった私ですが、
最近では、見かけても、あまり心を奪われることがなくなってきました。
自宅の引き出しの中にある、
今まで買いためてきた、レターボックスやカードボックス、
便箋、封筒にシール、一筆箋、葉書類のことを思って、
あれだけでも、この先、使い切れるかどうかわからないのに、
これ以上買ったら、どうなるのだろう、
と思ってしまうのです。
買ったとしても、眺めてうれしいと思う気持ちより、
こんなに持っていて、どうするの、と思う気持ちの方が強くなるでしょう。
そう思うと、買う必要はないな、と思ってしまうのでした。
どうせ、買っても、使いきれない。
美味しそうに見えても、食べ過ぎたらお腹をこわしてしまうかもしれない。
私にとっては、その美味しそうな葡萄も、手に入れる必要はない葡萄なのです。
「酸っぱいぶどう」は、負け惜しみの言葉だから、使いたくない。
長い間、そう思ってきた私ですが、最近あった出来事により、
「あのぶどうはおそらく酸っぱいだろう」と考えてみるのは、
むしろ良いことなのでは、と思うようになりました。
おいしそうな葡萄を見かけても、それが本当に手に入れたい物なのか、
自分の心に、よく問い掛けてみたいと思います。
今日も最後まで読んで下さって、ありがとうございました。
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