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【き・ごと・はな・ごと(第13回)】つらつらと…椿の~枝でちんとんしゃん

祠が先か椿が先か。薮椿が咲くところにはたいてい神社や祠がある。逆に、お宮があれば、ほとんどといっていほどに椿が植えられている。

我が国の椿の原種である薮椿の自生は、九州、四国、本州と広くまたがって分布していて、その北限は青森の夏泊だという。

わたしが椿、それも薮椿が気になりだしたのは、その地、夏泊が伏線に絡んだ内田康夫の推理小説「夏泊殺人岬」を読んだことからだ。ストーリーに展開に夏泊半島にある椿神社を始め、三重の椿大神社とか、椿と名の付く数々の神社が登場してきた。石川県、金沢の椿原天満宮、山口県萩の椿八幡宮、奈良の椿本神社とか、とにかく全国に椿と付く神社がウジャウジャあるのを知った時は、なぜかワクワクと心が躍ってしまったのだから妙な話ではある。

民族学の一例に引くと、日本列島に散らばっている自生の椿は、比丘尼、いわば古代の神がかった歩き巫女たちが植えて回ったものなのだそうだ。彼女らは、まるで自分たちが比丘尼であることを示すかのように手に手に椿の枝を持って全国を行脚した。熊野信仰の布教の為だとか、大量にリストラされた巫女たちなのだという説もある。霊感が売り物の彼女たちは、辻占いをしたりして日銭を稼いだが、そちらの方のお呼びがないときは「つ〜ばあ〜き〜の枝で、ちんとんしゃん〜」(?)と唄い踊る芸能比丘尼となったり、ときには春を売ったりの多角経営振りだったとも聞く。そうこうして旅行費用を調達してあちこち歩き回った比丘尼たちは、行く先々で椿の枝を差し、それが、それが今、あちこちに薮椿の群落となって残っているのだというのだ。これが若狭に伝わる八百比丘尼の物語りになると、比丘尼はたくさんいたのではなくて、実は不老不死のたった一人が800年もも永きに渡って徘徊したのだというコトにもなる。

昔からその霊力が崇められた椿が生んだ俗説なのだろう。でも、改めてみてみると、古いお宮のあるところに椿ありは確かである。なんだか、オハナシだけでは収まりきれないものを感じてしまう。神社は、よくいうパワースポットというではないか、ひょっとして比丘尼はその力をキャッチして、ここは神降ろし、あるいは御託宣の得られる場所ですよということの目印のために、神聖なる椿を挿し木したのか、はたまたUFOでも呼ぶつもりだったのかしら、などとツラツラ考えると興味が尽きない。ますます椿が気になってくる。辛気臭い花くらいに思って、全くそれまでは気にも止めなかった椿が、やたら気になりだした。

※      ※

つい先だって浜松に行くことになった時も、真っ先に頭をよぎったのは椿姫観音のことだった。かって読んだ資料によると−夫亡き後、曳馬城の女城主として、徳川家康勢を相手に討ち死にした田鶴の方を慰めるための塚がある。敵とはいえあまりにも美しくあっぱれな最期を遂げた田鶴の方を家康が弔ったもので、周囲には彼女の死を悼んだ家康の正室築山御前手ずから100余株の椿を植えたとあった。

資料に明記してある電話番号にかけてみたら「はい、××結婚式場です。?・・・ツバキ?ですか、聞いたことありませんね」との答え。諦めていた矢先に地元の知人から連絡があった。「ありました。でも椿は一本あるだけで、わざわざ行ったらきっとがっかりされますよ」とのこと。それでも、「別に見事な椿を見たいわけではなくて、そこの由来の方が気になるから」と強行してみると、道路の角地に小さなお堂と変哲のない椿の木があるだけのものだった。椿姫観音堂と書かれた文字がやけに立派で、たぶん、それがなければ見過ごしてしまったことだろう。

どうして100本の椿が消えたか定かではないが、昭和初期、耕地整理の際に元浜町の今の場所に移転、さらに戦災で焼けて再建して今日に至っているという。それまでこの辺は通称椿屋敷といい、周囲も椿東、椿西という名で呼ばれていたそうだ。塚の回りには椿が数多く植えられていて毎年、華麗な花をつけていたという。

説話によると、築山殿は田鶴の方の死を痛く嘆き「この椿、永く年ごとに咲いてたも、願わくば、お田鶴どのの未来に、栄えあらせ給え」と念じた。すると不思議にも数日後に、椿は紅いゆかり色と香をこめて微笑むように、パッと咲きほころんだ−ということだ。築山殿はなぜそれほどに田鶴の方に心を寄せ、また何ゆえに椿を植えたのだろう。その10年の後に夫、家康から自害に追い込まれたことを想うと、彼女は田鶴の凄絶な死に、戦国の世に翻弄される自分の哀れさを重ね合わせていたのだろうか。

お堂の再興には、椿姫観音を心の寄りどころとしていた地元芸妓たちの応援があったればこそと聞く。ちんとんしゃん。顔で笑って心で泣いて。彼女たちも甘えを許されず自らを立ち上がらせて生きるイミに於いては、戦国の世に散った女人たちと、その心根に通じるものがあるのだろうか。一本の椿は、「私たちを忘れないで」とでも言いたげに、枝を揺らす風に負けじと、五弁の花びらを凜ともたげて佇んでいた。

あれ?近所の人も気づかない程地味
横側から
あざやかに咲く五弁の椿
伝説を紡ぐ1本の椿
正面に「観音の会」の文字
新しい花が供えてあった
椿の枝を手にした八百比丘尼(福井県若狭)

写真:菅野節子
出典:日本女性新聞—平成10年(1998年)4月15日(水曜日)号

き・ごと・はな・ごと 全48回目録

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