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蟻穴を出づ

「蟻は必ず左の二番目の足から歩き出す。」

これは画家の熊谷守一くまがいもりかずの言葉である。
彼は明治から昭和を生きた大画伯であり、自宅の庭に引きこもってそこに訪れる生き物たちを描きつづけた仙人のような人物なのだ。その熊谷守一仙人は庭の蟻たちをじっと観察し続けたあとで、
「蟻は必ず左の二番目の足から歩き出す。」
という名言を放ったのである。
私はそれを何かの本で読んだはずだが、もうずいぶん前のことなのでそれが左足だったのか右足だったのか、二番目の足か三番目の足かは記憶が曖昧になってしまった。
だからこの春はぜひ自分の目でその答えを確かめてやろうと思っている。ただそれには今しばらく啓蟄けいちつの日を待たねばならない。

「啓蟄」は一年を二十四の季節に分割した「二十四節気」のうちの一つで、ちつ(土の中で冬ごもりしている虫)をひらくと読み、土の中で眠っていた虫たちが春の訪れを知って穴から出てくる頃をさす。
どうやら今年の啓蟄は三月の六日に当たるそうだが、ここ数日ずいぶん暖かくなったから、探せばどこかにもう蟻の姿は見つかるかもしれない。しかし正しく啓蟄の日に「ああ確かに今日は啓蟄だなあ…」という感慨にふけるためには、それまでの間一切の地を這う虫を視界に入れてはいけないのである。

そもそも蟻という生き物は厳然とこの世に存在しているわけではない。彼女たちは見ようと思う者の前にのみ現れる妖精のような生き物である。
私は幼いころ根っからの昆虫少年であり、朝な夕な虫たちを追いかけ回していたが、もちろんその頃の私の周りは無数の蟻たちであふれかえっていた。それが思春期になってめっきり自然への感心を失ってしまうと、蟻たちはぱたりと私の前から姿を消してしまった。私は蟻はもう絶滅したものだと思っていた。この小さな妖精は色恋に走りうつつを抜かしている若者の目には決して映ることが無いのである。
試しに私の周りの自然になど微塵の関心も持たない数人の知人に尋ねてみたところ、彼らもやはり蟻はもはや絶滅危惧種だと思っているようだ。真面目な顔で「やっぱり地球温暖化の影響だろうか…」などと言うのである。

一度は私の前から消えてしまった蟻たちであったが、あるとき彼女たちは再びこつぜんと姿を現した。それは私が大学に行って生物学を学ぼうと決めた数日後のことである。
彼女たちは私の前に開かれた進路をことほぐように、土を開いて地上の世界に現れた。これぞ我が人生の啓蟄の日であった。

その後大学に入った私は野山を歩きまわることに夢中になり、結局学問などはどうでもよくなってそのまま学校を辞めてしまった。
以来今日にいたるまで半分仙人みたいな心持ちで自然の中をおぼろげに生きている。
自宅の庭に引きこもり貧乏暮らしを続けて「画壇の仙人」と称された熊谷守一画伯は、そんな私の憧れの人の一人なのである。

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