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後藤又兵衛と伊予長泉寺

砥部焼で有名な砥部町との境界近くの伊予市丘陵地に、長泉寺という小さなお寺があります。実は、このお寺は彼の戦国武将後藤又兵衛の首塚を祀るお寺なのです。

後藤又兵衛基次公

伊予市は、「後藤又兵衛基次公菩提所」として、昭和63年11月29日に市の指定文化財に指定しています。寺の門前に伊予市教育委員会が設置ている説明板にはこのようにあります。

後藤又兵衛は播磨の国(兵庫県)の武将で、黒田孝髙・長政父子に仕えた。知勇に優れた武士であったが、黒田家を出奔した後は大阪夏の陣で豊臣方につき、慶長20(1615)年5月6日の道明寺合戦で最後を遂げた。
この時、配下の吉村武左衛門(武右衛門)は、遺命により戦士した又兵衛の首を刎ね、戦後、長泉寺近くに埋めたといわれる。その墓は、現在の宮下南組の民家にあって、更に、その隣家の敷地には廟所(社)があり、住民は代々又兵衛を「後藤さん」と呼んで祀っていたという。
現在、この墓と社は長泉寺境内に移されている。長泉寺は又兵衛の母方の伯父である藤岡久兵衛が僧となっていた寺で、昭和40年(1995)には子孫により境内に又兵衛の供養塔が建てられた。長泉寺では、昭和35年から毎年、新暦5月6日(近年は新暦5月5日)に法要が営まれている。

伊予市教育委員会

住職曰、首塚のあった民家では代々、後藤又兵衛の命日には「後藤さんの日」としてぼたもちを作ってお祀りしていたそうです。また、寺に移設されてからは、「後藤祭」として、近隣の人たちが集まり餅まきなどをしてお祀りしているとのことです。

後藤又兵衛首塚


今年は、後藤又兵衛の出生地の兵庫県姫路市山田町で、後藤又兵衛の功績を紹介する「後藤又兵衛顕彰会」のメンバー5人が寺を訪れ、桜の苗木を植樹し、その様子は愛媛新聞にも取り上げられました。
この桜は、又兵衛が落ち延びたとの伝承が残る奈良県の屋敷跡にある樹齢三百年超えのしだれ桜から、顕彰会のメンバーが種を譲り受け苗木に育てたとのことです。

又兵衛桜

わたしがこの寺の存在を知ったのは、生涯学習センターのデーターベース『えひめの記憶』の下記記事を見つけたことからです。

後藤又兵衛基次 (伊予市宮ノ下惣津池長泉寺北下大塚清七宅)…長泉寺住僧は後藤又兵衛の伯父なり。大坂落城の後ち廻国の姿にて当国へ渡り、久万の岩屋寺に詣ふて座禅して在りしが、松前城主加藤嘉明公参詣し給ふ。先き走り来って、今日国主詣ふて給ふと云ひければ、目を見開きて、国主とは加藤左馬前かといふ。先き走り帰て見坂(三坂)といふ所にて主君に出逢ふて其の顔色様子を言上す。依って嘉明公ここより引返して岩屋寺に詣ふて給わず空しく帰城し給ふと云ふ。夫れより又兵衛は長泉寺に寄留し一生此寺に潜みて居て死したり。半弓鉄炮は一所に埋み笈は寺に在りとい云ふ。村内百姓屋敷に墓ありと。(伊予温故録)

生涯学習センターのデーターベース『えひめの記憶』より
松前城祉

ここでは後藤又兵衛は生き延びて、長泉寺でその生涯を終えたことになっています。また「松前城主加藤嘉明公」となっていますが、大坂夏の陣(1615年)には、すでに勝山城(現在の松山城)は完成しており、転居していることから後世の創作と思われます。
ただ又兵衛は、主君黒田長政との確執から謀反を疑われ出奔した後、奉公が禁ぜられる「奉公構」という罰が与えられ、長い流浪生活を送っています。仮に岩屋寺のくだりは、又兵衛がこの放浪期に伯父の寺に立ち寄った際の話だとすれば、それもありかなと思います。


海岸山岩屋寺

子供の頃から岩屋寺に思い出のある私としては、後藤又兵衛にほんの少し近づけたようで、そうに違いないと思い念い筆を執ったしだいです。

又兵衛(仮名 寺の飼い猫)



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