大野喜久夫(きっずゼミ)

愛媛の片田舎で「毎日添削きっずゼミ」を始めて早20年が過ぎました。「神話を忘れた民族は滅びる」ある歴史家の言葉です。そういえば老人達は昔話をしなくなり、夢を持たない子供達が増えているように感じます。今こそ日本人の心の古里を探す旅を、ここ久万高原町から始めてみたいと思います。

大野喜久夫(きっずゼミ)

愛媛の片田舎で「毎日添削きっずゼミ」を始めて早20年が過ぎました。「神話を忘れた民族は滅びる」ある歴史家の言葉です。そういえば老人達は昔話をしなくなり、夢を持たない子供達が増えているように感じます。今こそ日本人の心の古里を探す旅を、ここ久万高原町から始めてみたいと思います。

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    松山奇談 八百八狸Ⅳ

    第四席さて、小源太が伊豫国松山へ来て召抱えられ、三年目の事でございます。小源太が三平という家来を召し連れて道後の温泉場へ行き、松前屋喜平という家で入浴をし、酒を飲んでいると、容貌の好い婦人が二十歳位の女と廊下を通ったのを何気なく見て、 (あっ、飛騨高山の進藤先生の御新造と娘のお雪さんだ。はて、二人はここに何しに来たんだろう) と、思って手を拍つと、下女が来まして、 「お呼びになられましたか」  「今、この廊下を通ったお内儀さんと娘さんは、何処に泊っているか知っておるか」

      • 松山奇談 八百八狸Ⅲ

         第 三 席  さて、その子は犬の乳で育ったというので、伏太郎と名付けられましたが、中々どうして、この伏太郎の力は尋常ではなく、どんな夜中でも足音で直ぐに目を覚ましまして、暗闇の中でもはっきり物が見えるという、誠に不思議な人間なのでございます。  伏太郎が十二才の時に父親が大病に罹り、夜も寝ずに看病をしていて、 「父さん、僕はね。人から『母さんがいない』と、言われますが、母さんはどうされたの」  と、聞きますと、 「お前の母さんは、お前が生れて三日目に死んでしまった。それで

        • 松山奇談 八百八狸Ⅱ

          第 二 席  さて、互いに斬り合いとなり暫く戦い続けていたのですが、勝負がつかず、双方共に体が疲れてきて、一息付いた時、 「あいや暫(しばら)くお待ちを、拙者はこの菩提山菩提寺に通夜に参った者で、後藤小源太と申す浪人で御座る。貴殿は御城内の御方と御見受け致します。失礼ながら貴殿の腕前実に驚き入り申した。到底、我の及ぶところでは御座りませぬ」 「これはこれは、貴殿がこの寺で古狸を退治したという後藤殿で御座ったか。甚だ失礼を致し申した。拙者は奥平久兵衛と申して、当藩で剣道指南役を

          • 松山奇談 八百八狸Ⅰ

            口演 揚名桃李 書記 一穴庵貉 現代語訳 大野秀文 第 一 席  天智天皇の御代に生まれた狸に、多くの一族郎党が出きた頃、伊予の国の松山に義賢(よしかた)という大名がいました。 伊予の国の領主ですが、隣国の大名に攻められ、最早(もはや)落城かという時に、この古狸が現われて、一族郎党八百八狸を引率てこれを助けたというのが、この話の主意でごさいます。  これら狸が何匹いたかは記されていませんでしたので、数多くいたいう事で、八の字を使って『八百八狸』と題しました。  さて、

            悲運の勤王志士『中島与市郎』

            前々回、久万高原町二箆(ふたつの)に伝わる『鵺伝説』について書きましたが、二箆の言い伝えには、もう1つ土佐の勤王志士『中島与市郎』の脱藩の話があります。 『鵺伝説』は、有名ですが『中島与市郎』については、久万高原町でも知らない人がほとんどで、二箆で何人かの高齢者に聞き取りしましたが、現在は語り継ぐ人もいない状態です。 私も『鵺伝説』の聞き取り調査をしていたときにいただいた資料の中に、たまたま二箆小学校で校長をされていた故相原芳愛先生が、まとめられた二箆の郷土誌の中で偶然見

            隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)

            久万高原町出身の全国区の有名人というと、残念ながらほぼ皆無といっていいと思います。あえて上げるとするなら初代『仮面ライダー』を演じた俳優の藤岡弘さんでしょうか。 ただ彼の場合はお父さんが警察官で、久万高原町東明神の派出所勤務だったため、転勤でに引っ越してきて、小学生時代を過ごしたということです。 他にいないかなと調べていると、いました、いました。しかも全国区が一人、いや一匹というべきでしょう。 それは「隠神刑部(いぬがみぎょうぶ)」です。 この名前を聞いてもぴんとこない人も

            平家物語と久万郷

            赤蔵ヶ池の鵺伝説これは久万高原町黒藤川二箆(ふたつの)にある赤蔵(あぞう)ヶ池にまつわる鵺伝説です。この話のもとになっているのは、平家物語の「源頼政の鵺退治」の話です。 平家物語の「鵺退治」 こちらには、「赤蔵ヶ池」も「源頼政の母」も出てきません。また源頼政は、摂津国渡辺(現在の大阪市中央区)の人で久万高原町二箆とは何の接点もありません。 では、なぜ「赤蔵ヶ池」と「源頼政の鵺退治」が結びついたのでしょうか? それはどうやら鎌倉時代から室町時代にかけて、浮穴及び久万郷の地

            源氏物語と久万郷

            2024年の大河ドラマは、「源氏物語」の作者である紫式部の生涯を描いた「光る君へ」となったそうです。 これまで大河ドラマが扱う時代といえば、一部例外を除いてほとんどが戦国時代か幕末、また平安末期から鎌倉時代が中心でした。 平安時代後期より前の時代を扱うのは、初めてではないでしょうか? しかも主人公は女性? 大河ドラマとしては随分趣が異なるような気がしますが、その分どんな仕上がりになるのか興味もそそられます。楽しみに待ちたいと思います。 ところで「源氏物語」といえば、世界最古

            後藤又兵衛と伊予長泉寺

            砥部焼で有名な砥部町との境界近くの伊予市丘陵地に、長泉寺という小さなお寺があります。実は、このお寺は彼の戦国武将後藤又兵衛の首塚を祀るお寺なのです。 伊予市は、「後藤又兵衛基次公菩提所」として、昭和63年11月29日に市の指定文化財に指定しています。寺の門前に伊予市教育委員会が設置ている説明板にはこのようにあります。 住職曰、首塚のあった民家では代々、後藤又兵衛の命日には「後藤さんの日」としてぼたもちを作ってお祀りしていたそうです。また、寺に移設されてからは、「後藤祭」と

            大宝寺と岩屋寺と久万郷

            久万郷は四国の山深い辺鄙な地にありながらも、意外に早くから中央とのつながりがあったことがうかがえます。それは大宝寺と岩屋の存在があったからに他なりません。 菅生山大宝寺縁起 大宝寺はその名が示すように大宝年間(大宝律令の大宝)、文武天皇(在位697〜707)の勅令により寺院を建立、元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建されたと伝えられています。その縁起は「愛媛県生涯学習センター」のデーターベース『えひめの記憶』に詳しいのでそのまま引用させていただきます。 事の起こりとなっ

            三つの大野ヶ原の戦い

            西予市の北東高知県との県境に、標高1000mを越える高原が広がる大野ヶ原というところがあります。 大野ヶ原はもともと浮島が原(うきしまがはら=小学校の近くにある小松が池に浮島があるのが由来)と呼ばれ、その後一朝が原(いちあさがはら=弘法大師にまつわる逸話に由来)と名を変えましたが、久万大除城主の大野直昌が長曾我部元親軍とこの地で戦ったことから、現在では「大野ヶ原」と呼ばれるようになったとのことです。 ここではその大野ヶ原の戦いを今に伝える、三つの伝承についてまとめてみました。

            家紋

            我が家の家紋ご先祖様をたどる手がかりの1つとして「家紋」があることは、気づいていましたが、家内に「ところで我が家の家紋は?」と問われ、はったと困ってしまいました。 羽織や紋付きなどついぞ見る機会がなくなった昨今、『家紋ってどこで‥』と思っていた矢先、母が他界したことでお墓の修繕をお願いしたところ、新しくなったお墓にくっきりと家紋が浮かび上がっているではありませんか。 そして周りのお墓は見回してみると、あるわあるわさまざまな文様の家紋が一斉に視界に飛び込んできました。いかに

            伊予の「大野」はどこからきたの?

            伊予大野氏の出自伊予大野氏の出自については、『大野系図』によると、天智天皇(626~671)の皇子大友皇子(おおとものおうじ)から大伴旅人(おおともたびと)を経て、大野氏になったと伝えている。 しかし壬申の乱において、弘文天皇(大友皇子)に対して反旗を翻した大海人皇子(天武天皇)の側で活躍したのが、天智天皇の時に右大臣を努めていた大伴長徳(ながとこ)の弟の馬来田(まくた)・吹負(ふけい)兄弟で大伴旅人の父大伴安麻呂(やすまろ)もその兄弟であることから、大友皇子の後裔というの

            ジョン万次郎や正岡子規が見た三坂峠からの景色

            三坂峠のなりたち古事記によると伊邪那岐命(いざなぎ)と伊邪那美命(いざなみ)の国生みにより2番目に生まれたのが四国とされています。その四国の最高峰石鎚山を中核とする石鎚山系は、フィリピン海プレートのユーラシアプレートへの北西方向への沈み込みに伴い、東西に走る中央構造線にそって切り取られた南部が隆起し造られました。 これにより石鎚山系の北側は道前平野・道後平野に立てられた屏風のように急峻な地形となり、他方、南側は隆起した岩石がいくつもの山々を形成し不規則に折り重なりながら連な