見出し画像

室町時代の伊予大野氏

大野家二八代直里は通称を弥次郎、応永二五年(一四一八)に将車義持から伊予国における軍功によって、道後分の岡田北名田職を賜わり、また永享四年(一四三二)、大野宗家の人と見られる明正から、大田本郷及び久万を譲り受けています。「大州随筆」所収の文書にこのようにあります。

太田之内本郷久万之事、ゆつり奉也、此内中川之事ハさけうニやくそくして候へバ、とうせられて、就中掛身之事さしおかるべく候、後々の事下きようあるべく候、依爲後日如件
            永享四年六月廿日  明  正(花押)
      大野弥治郎殿

直里は後に細川満元の書状を受けて土佐に出陣し、討死しています。

檮原村史編纂資料「津野山異談続編」には、「予州河野の大軍檮原城に攻め来る」の項で、「餅打城(和田城)を守っていた前田道慶、突如襲い来た予州の河野軍を迎え討ち大いに之を破り逃ぐるを追うて広野小白井谷に至りみなごろしにす、此の地に屍を埋めて河野士千人塚という。云々」とあり、和田城祉の北側の小山は河野士山と呼ばれいるそうです。
この伝承は、直里が戦死したときの戦が語り継がれたものかもしれません。

梼原和田城と河野士山(右小山)

二九代直鎮は上野介、宮内少輔。文安元年(一四四四)に河野教通から明正所領分を安堵されたほか、余戸市坪に一か所、桑原領家職一か所、砥部宮内一か所、寒水東方一か所などの所領を与えられています。大野氏の本拠は小田であったと思われますが、山分だけでなく里分へも漸次勢力をのばして行ったようです。この人の没年を文安六年(一四四九)七月二〇日としています。

三〇代繁直は応永二七年(一四二〇)の誕生で幼名な熊法師丸、長じて弥次郎、備前守と称する。宝徳二年(一四五○)四月に義政の将軍職就任の賀に上洛して宮内少輔に任じられ、同年一〇月、土佐国の津野之高討伐を命ぜられて出陣しています。

土佐国津野備前守退治の事、早く守護代相共に忠節到さるべき由、仰せ下さるる所、仍て執達如件、
        宝徳二年十月廿二日  沙弥(畠山持国)
          大野宮内少輔殿

津野氏は土佐の国の七人守護の一人で高岡郡姫野々城に拠り、領地の北境は梼原で伊予国久万山と相接しています。

姫野々城祉(津野町)

当主之髙は、自他共に認める文化人であったようで、十七歳で即興詩を賦し、将軍義政はその才能を賞賛しています。度々上京し五山の高僧と交遊を重ね華やかな京の風情を半山へ移し植えようと、多数の神社仏閣を再建しています。

しかしそういった度重なる出費や課役は領民の不平と不満をかったようで、「津野中平氏由来」中平秀則編には、「之髙は文学に耽り然も性質剛直、眇たる一小領地の主なるにも拘わらず、義政の命令に服さざりしため、義政も遂に征伐の教書を下さしむるの止むなきに到りしことならん。」とあり、之髙討伐の経緯が書かれています。

ただこの時期、伊予河野家では、宗家河野教通と予州家河野通春の間で内訌
が起こっており、将軍足利義政は同年七月、吉川経信に、八月に小早川盛景に、伊予国への渡海を令し、教通側を応援させています。ついで、翌三年四月に杉原伯耆守・小早川安芸守らに出陣を督促し、渡海して教通に協力するよう指示しています。

之高は、伊予国河野氏の出で、母が津野氏から来ていることから、その縁で津野春高の養子となった人です。予州家河野通春とは従兄弟の関係にあり、通春に同調する何らかの動きがあったことから、隣接する大野氏に討伐が命ぜられたのではないかというのが現在では通説となっています。

繁直は幕府から土佐の津野氏討伐を宝徳二年の末に命ぜられ、翌三年に土佐に攻め入り、六月一一日の合戦で手疵を被っています。

大野氏の不幸はこの後に起こります。戦況報告のためにか、この年の夏に上洛した繁直が、帰途兵庫において暑さのため狂死し、かつ讒言する者があって家が断絶します。

繁直に男子が二人あり、兄の通繁は幼名尺法師丸、永享一一年(一四三九)の生まれで、一二歳の宝徳三年(一四五一)に河野家の通春を烏帽子親として元服し、四郎治郎と名乗りましたが、図らずもこの悲運に見舞われ、弟の武熊丸綱直と共に、遠縁に当たる冨永安芸守時義(二六代義直の子)の所領、喜多郡宇津村に身を寄せることとなります。

大洲市宇津

一方、大野氏不在の小田、久万地方の形勢は不穏な状況になってきます。久万に出雲入道という者が現れ、その勢力が強大となって、長禄、寛正のころ土佐勢を手引きして、しきりに小田郷の侵略をはじめたのです。小田郷の日野・林・安持・土居の四家は、これに対抗するため種々相談の結果、由緒ある大野家の兄弟を喜多郡から迎えて将と仰ぎ、久万出雲入道と一戦に及ぼうという工作を開始します。

このことについては、大野家との縁につながる美濃の土岐成頼が将軍義政にとりなす所があり、通繁、綱直の兄弟は大田土居城に迎えられ、家名を再興することができました。寛正三年(一四六二)八月三日、大平中務大丞を上京させて、将軍家にお礼として料足二〇貫文を献じています。

こうして大野兄弟を将とする小田勢は、寛正五年(一四六四)に久万出雲入道を攻めてこれを討ち取り、やがて兄弟は大除城に移ることになりました。そして重見通煕、森山範直、重見元康ら連名の証文を得て、出雲入道のあと三〇〇貫の地を領するようになったのです。

申定御領所等事
一 久万山出雲入道跡、早く先例に任せ知行有るべく候也、
  若し三百貫相定め申さず候はゞ、両三人申談相副申すべく候、
  仍て後日のため証状如件
     寛正五年六月廿六日
              重見近江守  通煕
              森山兵庫介  範直
              重見刑部少輔 元康
     大野殿

大除城祉(久万高原町)

出雲入道の乱については、下記のような伝説が残っていますので、記しておきます。

 長禄・寛正の頃、久万山に出雲入道という大変力の強い法師がいた。
 法師は諸国の霊地・霊山を回りながら修行に励んでいたが、いつのころからか久万山に来て、村人達に加持祈祷・おまじない・占いを施すようになって、菅生中之村にとどまることとなった。
 この法力はなかなかよく効くというひょうばんがたった。それを伝え聞いた隣の村々からも峠を越えて大勢の人々がたずねてくるようになり、法師は大変裕福になってきた。すると弟子になりたいと入門を願う人たちも現れてきた。
 また、力自慢の法師の庵には諸国を回り歩く妖しげな山伏たちがたむろするようになって、いつの間にか法師は頭目格となり、自分を偉く見せるために出雲入道と名乗ったそうである。
 そのうちに、久万山の土地は全部我がものにしようと野心を抱くようになり、荒くれ者たちを連れては、村々を襲い、いうことを聞かない者は力ずくで土地や食糧・衣服などを奪い、乱暴のかぎりをつくしたということである。
 また、毎日のように大勢の村人を呼び寄せては、地鳴らし、大きな家や蔵を建てる労働に使役し、前よりもいっそう重い税を取り立てたので、入道は豊かになり、勢いがますます盛んになっていった。
 その頃には多くの家来を抱えるようになっていた。武器をたくわえ、堀をめぐらせ、柵をならべた土居構を厳重にした出雲入道は久万山だけでは満足できなくなって小田山も自分の領地にしょうと企んだが、小田山には日野・日野林・安持・土居という在地の豪族たちが連合しており、団結も固かったので、入道は自分の力だけでは攻め込む自信がないところから、土佐の殿様にたのんで、配下になる約束で、土佐兵の力を借り、小田山に侵略しはしめた。
 ところが、日増しに勢いをます入道勢をみて、小田山四家は談合し、武勇のほまれ高い喜多郡の大野家を頭領に仰ぎ、入道勢の猛威をふせぎ、これを退治しようと作戦を練った。
 大野通繁と弟の武熊丸を大将とした小田勢の気勢はあがり、力を合わせて出雲入道を攻めたてた。
 また、日ごろから入道の横暴さを快く思っていなかった久万山の衆も、この時とばかりにたちあがり、大野氏に応じて入道を攻めたてた。入道の力は急速に弱まり、遂に出雲入道と残党を菅生中之村に追いつめ討ち取ることに成功した。
 これより後、大野兄弟は菅生槻之沢に大除城を築き、久万・小田両郷を治め、遠く喜多郡・重信湖畔などの里分にまで勢力をのばしていったということである。

「久万山の民話」久万高原町教育委員会


参考文献
データベース『えひめの記憶』(愛媛県生涯学習センター)
津野山異談続編(梼原村史編纂員 中越穂太郎著)
津野中平氏由来(中平秀則編)
中世土佐国土佐津野氏に関する論文集(朝倉慶景編)
久万山物語(久万高原郷土会)
久万山の民話(久万高原町教育委員会)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?