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下書きになっていたもの。

最近、また無性に書きたくて書きたくて。という気持ちがあったけどこの「私のnote」の方向性がガラリと変わってしまってなかなか書く場所を得られずにいた。

SNSには随分長い間日々のなにそれをツラツラと書いていたけど、しっくりこなくなってしまった。ここは自由だと思っていた場所が庭の池だった。みたいな窮屈さを感じてしまう。

そんな訳で再びnoteのページを整理しようと思ったら。昨年2月にひっそりと吐き出して未公開になっていた記事があった。もう書いたことすら忘れてしまっていたけど。何気なく読んだら「この時の自分を解放してあげよう」みたいな気持ちになった。そんな訳で新しい文章は何も書いてないけど、未公開だった私の窮屈そうだった感情を昇華。なんだかすっきり。私にとって書く。と言うこと。は自分の心に問いかけながら健全に生きる術なのかもしれないな。


気がつけば2月。

私の誕生日月になった。それまでも2月は1番特別な月だったけど、昨年から更に私にとって2月は深い月になった。
昨年、私の誕生日の前日に祖母が空に旅立った。私の実家の両親は、ギャンブルやその他の事ばかりで、あまり家に居つかない人達だった。幼い私はいつも祖母の家でごはんを食べて、寝泊りしていた気がする。本当の所はよく分からないけれど、幼い日々の思い出せる記憶は祖母の家での思い出ばかり。

私が嫁いだ後も、料理や家事でわからない事があるたびに祖母に電話して相談していた。
私にとって「いつもわかってくれる人」は7年前に他界した父と祖母だった。
特に祖母は、母が与えてくれない物をいつもくれた。
ご飯の様な物理的なものから、時間や子供にも分かりやすい愛情や生活の知恵の様な見えないものも。

そんな祖母が旅立った日。おつうやが終わった時々に私の数珠がプチンと切れた。きっとあっちに持っていきたいんだろうと思って棺に入れてあげた。
その時は、まだ実感が無かったけど、次の日の私の誕生日のお葬式の日。火葬場に行って、祖母の遺体に火が灯された瞬間、プチンと切れた数珠の様に何かが私の中で切れて「もう、私をわかってくれる人はこの世にいない」「誰も味方は居なくなった」という気持ちが止めどなく溢れてきた。心の奥の方で扉が開いてずっと閉じ込めていた「絶望」と言う様な物が体に広がった。
心臓が冷たくなって、父がいなくなった日に閉じ込めた悲しみも一緒くたになって溢れ出して、誰の葬式なのか分からなくなって、ただ私の体はあちこちから「ひとりになった」と絶望を告げていた。

生前、痴呆が進んで入院していた祖母のお見舞いにも、怖くて行けなかった。私をみても誰だか分からないと言う顔をする祖母に、何を語りかければいいのかさっぱりわからなかった。あの日々を忘れてしまったように見える祖母と怖くて対峙できなかった。

そんな罪悪感と後悔も、心を重くした。

本当は、「今の私の家族」と言う味方はすぐそばにいる事も頭ではわかっていたけれど、身体から湧き出てくる絶望と孤独感と、自分を責める罪悪感は勝手にどんどん広がって、止める事ができなかった。
葬儀場から火葬場へ車を移動させるために自分の車は夫に頼んで、私は母の車を1人で運転して火葬場へ向かったんだけど、エンジンをかけて霊柩車の後ろに並んだ瞬間、小田和正の曲がラジオから流れ出した。その曲の「あなたに会えて本当に良かった。嬉しくて嬉しくて言葉にならない」と言う歌詞だけが、火葬場で骨になる祖母を待つ間、絶望に包まれながら頭の中でぐるぐると回っていた。

そんな昨年の誕生日から、もうすぐ1年。今日は祖母の一周忌だった。
何もできなかった私に、親族は変わらず接してくれて誰も私を責めたりしない。ただありがたいと感謝の気持ちばかり。

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