Atori Tsubasa

春は野山に遊び草木の輝く生命を愛で,夏は山岳を歩き青春の幻影を探して彷徨し,秋は落ち葉…

Atori Tsubasa

春は野山に遊び草木の輝く生命を愛で,夏は山岳を歩き青春の幻影を探して彷徨し,秋は落ち葉降る小径を往き季節の傾きに涙を流し,冬は暖かな室内で遙かなる深宇宙の星々に想いを馳せる。

マガジン

  • 夢日記2023~

    夢日記2023~

  • 不如帰の歌

    私の身体はこの地上へ縛り付けられているが,歌はどこへだって翔んでいける。この世のあらゆる土地を彷徨い,戻ってきたらその身体が喪われていたとしても。

  • 2024雑想

    2024.1~

  • 2022雑想

  • 果実雑想

    これまで公私で関わってきた果実(果樹)のあれこれについて、とりとめもなく書き留めた記録

最近の記事

実務的な魔王

夢のなかで、人間は滅ぼさずに温存し、支配して搾取したほうが得だと判断して配下に指図をしていた私。 実務的な魔王だったのかしらんw。 実務的ではない魔王って何だ。 理念を追い求め、それにそぐわないものは悉く排除するのか。それは気楽でいいな。 その結果、残るのは自分自身だけになるかもしれないけれど。 分裂するとか出芽するとかして増殖し、地上を自分だけで統治すればいい。 魔王なんだからそれくらいできるでしょ? 増えた自分から反乱を起こされる予感がする。 反乱を起こした自分とい

    • 夏梅の闇

      夏梅の降りつもる葉のしら雪に黄泉の闇なお濃くなり増さる(2024.6.25)

      • 金縛りと夢

        先日の葬儀で会った私の親戚で、見送った故人が夢に出てきて「金縛り」に遭った、という人がいた。 よく聞くように、故人が寝床(ベッド?)の近くに立っていて、そのときの自分は身動きが出来ず声も出せず、腰のあたりに重石が載せられていたように感じていた、と。 私は当該の事象に似た経験をしたことはない。 夢のなかで困惑するような状況に陥ったときには、(身体から自分が離脱して)その場から逃げ出したり、その状況は何なのかと追求する目的で手足を動かし移動した、という(夢の)記憶ばかりだ。

        • 覚醒した夢

          戦いの中で自分の秘めた力に目覚める夢を見ていた。 地上での車両同士の戦闘で、また、空に浮かぶ艦隊同士の撃ち合いで、何かがきっかけになり突然、相手の動きが先の先まで読めるようになった。 または、戦場を移動する速さが急に増して、相手の進路を先回り出来るようになった。 今まで力を振るえず重い足取りで歩んでいたのは、実は自分自身で自らの行動を厳しく抑えつけていたせいであることに気付いた。 この戒めを解けばもっと先に行ける。この目隠しを外せば、もっと広い視野が開ける。 今、その

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        記事

          終焉への抗い

          小学生のときに読んだ「水滸伝」の子供向け編集版。 最後の戦いで大勢の仲間を失った後、梁山泊の首領と彼を慕う暴れん坊の義兄弟が共に毒を仰いで亡くなる場面がある。 編者は、これでは少年少女向けの物語の終わり方としては良くないと思ったのか、「これは千年も昔のことを描いた物語だが、その時代も今も太陽は変わらず地上を照らしている」という一文(原典にはない)で最後を結んでいた。 当時の私はこの部分を読んで特別に感じたことはなかったけれど、今ならこう思う。 水滸伝の英雄たちにとって

          終焉への抗い

          楽園でしか生きられない

          朝から、FF14のキャラであるヴェーネスの、「楽園の中でしか生きられない、そんなものにならないで。」という台詞が頭を離れない。 この「楽園」とは何のことだろう。 必要なものが何でも手に入り、インフラと治安が完全な都市居住地? 旧約でいうところの「乳と蜜の流れる土地」? ここで想起するのは、「太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき」(ヨハネ伝1:1)という新約の記述。 言葉=ロゴスを核に据えた西欧の価値観。 ならば、神の国/天国とはつまり、ロゴス≒「理」が支配する

          楽園でしか生きられない

          歯が抜けて登山した夢

          門歯が3本抜けた夢を見た。 痛みもなく、ぐらぐらした歯を指でつまんだら簡単に抜けてしまい、もしかしてと思って隣の歯を動かすと、次々に抜けてしまう。 抜けた歯はプラスチックのように白く綺麗で、謎の穴がいくつか開いていた。 次の場面では3人のパーテイで登山をしており、渓谷から稜線に登って、休憩して持ってきたいちごを食べていた。 そこに濃い霧が流れてきて、側にいる人の顔も見えなくなってしまう。 私はGPSの端末を持っているからどこでも不安なく歩けるけれど、他の皆はどうだろう、と不

          歯が抜けて登山した夢

          希望と絶望

          「希望」とはそれ単独では存在し得ず、「絶望」の対立概念としてしか有り得ない、という考えが浮かんできた。 その意味するところは重大なので、どれだけ妥当性があるのかを検証しなければ。 希望も絶望もそれ自体成立し得ないものだとすれば、そこに在るのは、外部からの擾乱とそれに対する揺り戻し。つまり、散逸構造の動的平衡を保つための揺らぎ。 これは、ニーチェの言う永劫回帰と同じことなのかもしれない。 (2024.6.4)

          ローマ帝国のSourceとSink

          古代ローマ帝国の滅亡とは、周辺諸族の侵入を押し返すための軍団の維持、街道や建造物といった都市インフラの建築と維持、官僚機構の肥大や消費生活の充実といったシンクSinkが際限なく拡大していくのに対して、租税の徴収や寄付に拠るソースSourceが足りなくなったことが背景にあったのだと思うけれど、そういう観点からの論説というのはこれまであったのだろうか。 西欧の学者たちの議論として、当然あるんだろうな。 (2024.6.4)

          ローマ帝国のSourceとSink

          ゲームとゲーム外の世界

          FF14の同時プレイ人数がこれだけ増えたなかで、勢力拡大を目的とした政治主張の流布や、宗教団体への加入勧誘を行う者が現れたらどうなるだろう。 ・プレイ開始時に同意が求められている規約に違反した内容があれば、運営側からのペナルティ対象になり得る。 ・主張や勧誘の回数が多く、他のプレイヤーの行動を妨げると運営側が判断したときには、そうした行為への介入があるのか。これは規約に載っていたかもしれない(よく読んでいない;)。 ・聞きたくない主義主張等を語る者に対しては、ブラックリ

          ゲームとゲーム外の世界

          紙の山

          ひと山の資料から、探している一枚(ある人物のプロフィール)がどうしても見つからない夢を見ていた。 かなり深刻な状況で、パニックになっている。 インデックスを付けておけば良かったのに、と悔やんでいるが、もう遅い。 それにしても、それらの資料はどうしてサーバー上のデータベースではなくて、紙の山なのだ? (2024.6.2)

          存在と名称

          名も無きものはいつも突然私達の前に現れて、その存在の力で私達を揺さぶり、あるいは脅かす。 それ故、私達は存在の力から自我を護ろうとしてそれに名を与えるが、与えられた名は名称に過ぎないのであって、既に存在そのものではないのだ。 (2024.6.1)

          Smärg VS Smaug

          M.エンデの出世作となった「Jim Knopf und Lukas der Lokomotivführer」は1958年に執筆され、1961年にドイツ児童文学賞を受賞している。 かの「はてしない物語 Die unendliche Geschichte」の発表は1979年。 対して、J・R・R・トールキンの作品で世界的に有名になった「指輪物語」は1954年~1955年に発表されている。 エンデが創作活動を始めたときに「指輪物語」は既に世に出ていたわけだが、これが「はてし

          冴え冴えと

          冴え冴えと風吹き渡り雲流れ憂いも惑いも散り去りにけり(2024.5.29)

          界面妄想

          世界には他者はおらず自分しかいない、と言うのは、世界には他者しかおらずそこには自分はいない、と言うのと同じくらい不誠実な考えだと思う。 ならば私達が注目するべきなのは、自分と他者が出会うことで生じる「界面」だ。 界面というと風船の皮のような二次元の表面を思い浮かべたりするけれど、同じものでもここからは別の相だという「表面」もまた同様かもしれない。 これを三次元、あるいは四次元の空間に拡張するとどうなるのだろう(頭を抱える;)。 この考えを生態学に拡張すると、動的平衡に達し

          創作の業

          人を救い、自分を救うはずだった創作が自分自身を苦しめる。 作品で固定した概念を他人から揶揄され、あるいは無視される。 作品が持て囃されることで一人歩きを始め、自分の手から離れていく。 作品を産む以外の自分が無くなる。 それでも創らざるを得ない、創らなければ自分は駄目になる、という創作の業があるのだとすれば、その先には何があるのかを見てみたい。 (2024.5.28)