界面妄想
世界には他者はおらず自分しかいない、と言うのは、世界には他者しかおらずそこには自分はいない、と言うのと同じくらい不誠実な考えだと思う。
ならば私達が注目するべきなのは、自分と他者が出会うことで生じる「界面」だ。
界面というと風船の皮のような二次元の表面を思い浮かべたりするけれど、同じものでもここからは別の相だという「表面」もまた同様かもしれない。
これを三次元、あるいは四次元の空間に拡張するとどうなるのだろう(頭を抱える;)。
この考えを生態学に拡張すると、動的平衡に達している生態系と、別の動的平衡に達している生態系とが接触している界面の問題として捉えることができる。
「界面生態学」の爆誕だ。
この考えを言語学に拡張すると、文法規則が確立している言語体系と、別の文法規則が確立している言語体系とが接触しているフロントこそが問題だということになる。
「界面言語学」の爆誕だ。
化学で言うなら何だろう。化学反応の場面で、ナノ秒単位で現れては消え、量子の振る舞いに影響されるような活性錯体が問題だとか?
ソーカル的批判を避けるために、Wiki(日本語版)記事に拠り「界面」についての共通認識を復習しておく。
・「界面」は、ある均一な液体や固体の相が他の均一な相と接している境界のことであると定義される。
・そして「相」とは、化学的組成及び物理的状態が一様な物質系の実体であると定義される。
Wiki英語版では、別の表現により記載されている。
曰く、「界面は異なる物質、または異なる物理的状態の物質によって占められる2つの空間領域間の境界である」(Google翻訳に拠る)と。
これは日本語版記事の記載と似ているようで、同一ではない表現だ。
いずれ、私が界面生態学だとか界面言語学だとか言ったのはただのアナロジーであって、これらに(物理学で定義されている)界面という用語を使うのは適切な用法とはいえない。
分かりやすいとは思うんだけどなあ。 「境界面」とか「接触面」、「衝突面」ではどうだっ!(二文字にしたい;)
物質と物質、相と相、自と他が二次元の面で区別される場合に対して、変化に幅があり連続的な勾配で区別されている場合はどうなるんだろう。
「特殊界面」に対する「一般界面」と呼べるんだろうか。
ならば、両者の間がどれだけ離れていれば、区別されていると言えるのだろう。
その種類により、シュワルツシルト半径のような、界面が界面として出現する臨界となる距離が設定されるのだろうか。
英語版Wikiには、「界面領域=特性がどちらの相の特性でもない狭い領域」という記載があった。
ここまでは先駆者により登られている山だということが判明した。
(2024.5.28)
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