「違和感」の先にあるもの
現代音楽に潜む「違和感」
大学の授業の中で、最も印象に残っているのは一般教養過程で履修した「現代音楽」です。
石田一志さんという現代音楽の評論家が、大学の大教室で自分の好きな音楽をかけて、その説明を聴きながら音楽に耳を傾ける、というもの。およそ経済学部生としては最も専攻から縁遠い科目であったに違いありません。
後期ロマン派がブラームスあたりで終わり、その後ドビュッシーから現代音楽が始まった、とされています。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」の中にみられる、ゆらゆらとした調性の定かでないメロディ。無調性(いわゆるト長調など中心となる音階のない)音楽の始まりです。
これまでの音楽技法を研究し尽くし、それを「和声学」という書にしたためた後に「もうこれまでに生み出された音楽は全てここに書いた。だからここにないものを作る」として、「十二音技法」という、その後の現代音楽において重要な作曲技法を編み出したとされるシェーンベルク。授業で聴いた「月に憑かれたピエロ」という曲は全くもって理解不能でしたが、その壮大な実験を始める前に若きシェーンベルクが作曲した「浄められた夜」は今も名曲とされています。
聴き慣れない現代音楽を聴きながら、その先にあるものは何なのか。そこにとても興味を覚えていました。
「違和感」は永続しない
思い返すと子供の頃に、親父の友人がある時突然、レコードを送ってきたことがありました。「すばらしいから是非聴いて欲しい」というような内容のメッセージを添えて。家族でそれを聴いた時に、全員で爆笑したのを覚えています。なんじゃこれ。全然わからない。
その時に聴いたアルバムは、現代音楽の世界では大変有名な、アルバン・ベルクという作曲家の作ったバイオリン協奏曲でした。「ある天使の思い出」という副題がついたその曲は、建築家グロピウスと、ベルクの元妻のアルマの間にできた娘、マノン・グロピウスに捧げられています。ベルクはマノンをとても可愛がっていたのですが、マノンは若くして虚弱で天逝してしまいます。その死を悲しみ作られた曲なのですが、師匠のシェーンベルクが編み出した十二音技法を踏襲しながらも、そこに美しい叙情的なメロディが重ねられます。
今では最も好きな曲の一つなのですが、当時初めてこの曲を聴いたときのはげしい違和感は今でも覚えています。
ところがその違和感は必ずしも永続するわけではない。時には時間の経過と共にやがて慣れ、それがたまらなく好きになる瞬間が訪れることもある。そんな原体験をしたのが「現代音楽」の授業であり、ベルクのバイオリン協奏曲でした。
「違和感」の正体
最近気に入っている曲がイモージェン・ヒープとガイ・シグスワースによる「Sing」。たまたまかけた音楽配信サービスTIDALのプレイリスト「Electronic」の中に入っていました。
普通に聴くと、人によっては「ホラー映画の中に出てきそうなこわい曲」に感じるかもしれません。家で聴いていたら家族に「お願いだからやめてくれ」と言われました。最初聞いた時には、ホラーゲームで聞いたことのある遠ざかる警報サイレンの音のようにも聞こえました。
ところが、何かそこに引っかかるものがある。例の「違和感」です。それは一体何なのか。
この実験音楽とも言える曲はグリッサンドにより最初は1つだった音が2つに、そして3つ、4つにと複数の音に別れて徐々に変化していきます。なので、通常の音楽のように半音・全音ずつに規則正しく音が変わるのではないので(いわゆる「微分音」)複数の音は重なると不協和音になり、耳障りが悪くなります。ただ、しばらく聴いていると一瞬またきれいな和音に重なり、そして次の瞬間にはまた次の和音を目指して不協和音が続きます。
曲の中には、この曲を作ったガイ・シグスワースとイモージェン・ヒープがお互いに好きだというメジャー・セブンスとマイナー・ナインスのコードも聞こえてきます。
和音は、少しでもずれると不協和音に聞こえ、それは普通であれば聴く人にとって不快に感じるものですが、和音と不協和音の差は微々たるもの。そもそも、音楽に限らず綺麗で美しいものとそうではない(ようにみえる)ものの差も実はわずかなのではないでしょうか。
そう考えてもう一度この曲を聴くと、なんだかホラー映画のテーマソングのように聴こえていた音楽が、荘厳な宗教曲のような神聖で美しいものに聴こえてきませんか?
「違和感」からはじまる未来
僕は、世の中の大体の新しいことはこの「違和感」からスタートすると思っています。最初に話を聞いた時に、何かモヤモヤする。今までと違うから自分でもそれをどう咀嚼して良いのかわからない。この世界になかったモノやコトが初めて世に生まれた時、それを人々が初めて目にした時は多くの場合、違和感を持って迎えられます。ただ、その中には今後の社会を大きく変えていくものもあります。
違和感のない予定調和の世界(不協和音の無い、耳に優しい和音だけでつづられる音楽のようなものですね)は心地よいかもしれませんが、皆が当たり前だと考える既存の枠組みから一歩飛び出しているからこそ、そこから生み出される未来のインパクトは大きなモノになる可能性を秘めています。
インターネット上のサービスで言えば、Uberがその良い例です。今でこそウーバーイーツが日本でも市民権を得ましたが、元々他の国ではUberは自分の乗っている車に見ず知らずの人を乗っけてタクシーのように目的地まで連れて行ってくれるサービス。「見ず知らずの人を信じて車に乗ったら、犯罪に巻き込まれるんじゃないか」とか普通に怖くなりますよね。実際にそういう事件もあったといいます。でも、実際に使ってみると車に乗せてくれる人達の人生は様々。ともにするわずかな時間の中で、ドライバーの人達の人生を垣間見たりできる、とても素敵なサービスです。
以前乗ったドライバーの中には、ハワイに住みながらマクドナルドの店舗内など、教会にわざわざ行かなくても参加者が気軽にお互いの悩みを打ち明けながら話を聞くという布教活動をしている女性牧師に会いましたし、ラスベガスで乗った時には人生指南をされたこともありました。「魅力的な秘書を雇いなさい。そうすれば社員やお客さんが幸せになるぞ。」ちょっと間違えるとポリティカリーコレクトではなさそうにも聞こえますが、考え方によっては確かにそうかもしれないと思いました。
AirBnBも、そんなUberと同じく「突っ込みどころのある」サービスです。自分の住んでいる家の一部(もしくは全部)を見ず知らずの人に貸す。その人がどんな人かを良く知らずにお世話になる。「え、そんなことしたら家をめちゃくちゃにされるんじゃないか」「泊まる部屋に隠しカメラとか仕込まれてるんじゃないか」どちらも実際にあったそうです。でもそれ以上に、善良な人たちが善良な人たちの家に泊まることで新しい交流が生まれ、そしてサービスの素晴らしさが人々に浸透していきます。
以前泊まったパリのアパルトマンの一番上の階の部屋を貸してくれた初老のおじさんとは、1週間ほど彼の家に厄介になる中でお互いに気心が知れ、最後はおじさんのステーキを一緒にご馳走になりながら、買ってきた赤ワインで日本でもしない政治の話をしていました。その次にパリに行った時にはその部屋は既に予約が入っていましたが、連絡をしたところ「せっかくだから飯食べに来ない?」と。ワインを手土産に伺い、ゲストとしてステイしていた南米からのご夫妻と共に四人でバルコニーで楽しい時間を過ごすことができました。これはその時みえていた夕焼け。
他にも、2011年にシリコンバレーに行った時にはプール付きの一軒家の一室を借りたのですが、僕が家に到着するやいなや「まあ、とりあえず飲もうや」と裏庭のプールサイドに連れて行かれ、ビールを振る舞われます。話を聞くとオーナーは不動産屋。自分で家を建ててはその家を売って次の家を作るというなかなか面白い商売をしている人でした。「この家、いいだろ?買わない?」と。プールサイドで飲んでいると、今度は庭の反対側にある離れから同じくらいの歳のおじさんが現れ「あ、こいつはそこの離れを借りてるんだ。一緒にみんなで飲もう」と。そのうちに盛り上がり「バーベキューしよう。俺はステーキ買うから、おまえはサーモン買うっていうのはどうだ?」あげくの果てには「今週末は何してるんだ?俺たちは毎週、サンフランシスコから対岸のサウサリートに自分たちのヨットで繰り出してランチしてから帰ってくるんだけど、おまえも来るか?と。」その週末はひたすら80’sの音楽が流れるヨットに揺られて同年代のおじさん、おばさん達と一緒に楽しいひとときを過ごしました。
みなさんは、違和感を感じたらどうしますか?
僕は、違和感を感じたらちょっとだけリスクを取って前に出て、その違和感の根元にあるものを自分なりに理解してみようと思います。それで見えてくる世界が変わるかもしれないから。
まつざき
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