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たまに消費されている感覚になる

コンテンツを作る喜びは、自分の内なる世界を外に表現し、他者と共有できることにある。しかしたまに、自分が作り出したものが「消費」されている感覚になる。

SNSの投稿、ブログの記事、どれも心血を注いで作り上げたものだ。私の思いや経験を差し出して、身を削って書いている。しかし、それらが単なる「消費物」として扱われているような気がしてならない。

スクロールされ、そして忘れられる。次から次へと新しい情報が押し寄せる現代社会において、私の作品もその大きな流れのひとつの点に過ぎない。見られて、それで終わり。深く考えられることも、心に留められることもなく、ただ消費されるだけ。

この感覚は、創作者としての自尊心を揺るがす。自分の作品が他者の心に届いているのか、意味のある影響を与えているのか、それとも単なる時間つぶしの対象になっているだけなのか。

例えば、人と飲食を共にしているとき。食べもののおいしさに感動することがある。どんな思いで、どれくらいの時間をかけて、ここまで完成させたのだろうと思いを巡らせる。作ってくれた人への感謝と感動を共有したくて、目の前の人に味の感想を伝えてみても「そこまで味わって食べてなかった」みたいな反応をされると、虚しくなる。きっと私のコンテンツも、こうやって消費されているのだろうな、と。

しかし、この感覚に囚われすぎてはいけないことも分かっている。たとえ一瞬でも、誰かの心に小さな種を蒔くことができるかもしれない。創作の本質は自己表現にあり、他者の反応だけでその価値が決まるわけではない。

それでも、時々襲われる「消費されている感覚」は、現代のコンテンツ創作者が向き合わなければならないものなのかもしれない。この感覚とうまく付き合いながら、自分の創造性を大切に育んでいくこと。それが今後、私の課題になるだろう。

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