自己紹介 その3 (早くも、整体につまづく)

一昨日の9月27日のことです。
いつものように、よっちゃんの家でアクセスバーズを受けた後、今度は、わたしが
よっちゃんに、マッサージをすることに。

ところが、どうしていいか、分からなくなってしまったのです。

アクセスバーズで、「価値」というものが、ゼロになった感覚でした。

アクセスバーズの解説をネットで検索すると、
「思い込みや信念の開放」、「脳の休息」が、効果として挙げられています。
ですが、わたしはこれらは、確かに効果として、あるものだけれども、
本質的な作用は、「観念の切断」ではないかと思うのです。

「背が高い」ことと「かっこいい」こと。
これらは、別々の事象で、本来独立してあるものです。
だけど、いつのまにやら、「背が高いことは、かっこいいこと」となっている。
「背が高いこと」に「かっこいい」という価値が、つけられ、
背が高い=価値
というようになっている。

そういう事象と価値の切断。事象と事象の切断。
脈絡の切断。条件付けの切断。
この働きが、アクセスバーズのはたらきだと思うのです。

マインドマップの、一個一個を切り離していくような。
みたらしだんごや、数珠が、連なっている、その粒を、切り離していくような。
そんなイメージです。


そうすると、価値観が、一旦、ゼロになったような気分になる。


わたしの場合、
それまで、マッサージという場では、相手が楽になるように、治るように、気持ちよくなるように、意図して、触れていました。
なぜなら、気持ちがいいこと、治ること、楽になることは、相手の役に立つことで、
相手の役に立つことは、いいことである。
よろこばれることは、いいことである。
そう思っていたからです。

けれど、バーズを受けてから、よっちゃんの身体を前にすると、
身体自身が、それだけで、完璧に見えてしまった。
不足のない、身体。
ある意味、付け入る隙のない身体。

相手の身体に、辛いところがあれば、今までは、そこを治す・癒すという目的で、関わっていました。
その患部を基点に、相手の役に立つことで、自分の価値を上げていたのです。
相手の弱いところがあることで、自分が、相対的に強くなる。
救うことで、高まる自分の価値があった。

だけど、バーズの後、身体が、とても完璧に美しく見えたので、
手を出す隙がない。
よっちゃんという存在が、とても畏れ多く思えたのです。

もう、こうなったら、お手上げ。
関わり方が分からない。
もう、賛美歌を歌うか、祝福するか、それしかできない。
それでも苦し紛れに、手を握ってみたり、膝を触ってみたり、手を当ててみたりしました。
でもどれも、しっくり来ない。
だって、癒すべき身体なんて、無いから。身体は、完璧だから。

仕方がないので、何したらいいか分からないから、
少し離れたところで、合掌して、座っていました。

よっちゃんは、その間、目をつむって、横になっている。
わたしがそんなことになっていると気付かないので、
手を当てていると思っていたからか、身体が軽く、気が流れるような感覚になったそうです。
で、ふと、目を開けると離れて、わたしが合掌している。
それに気付いて、爆笑していました。

それでも、身体は、軽くなったそうです。


へんなの。これは、プラシーボ効果でしょうか。謎です。
でも、プラシーボでも、身体が軽くなったなら、いいですよね。

こんなことを、体験したので、
わたしが、何もしなくても、勝手に身体が軽くなってくれるんだとしたら、
わたしの存在意義って、まさに、存在そのものでしかなくて、
なにかをしたから、存在意義が生まれるものではないのだ、と思いました。


うーん。


整体という道が開けたと思いきや、早くも、先が見えなくなった文子でした。

だって、整体って、なにかしら、「する」ものだと思っていたから、「する」のでなく、「ある」ことが意義なら、なにもしなくったって、いいわけで。

それなら、友達になる、とか、手を握ってじっとする、とか、そういう、限りなく、「ただある」ことが、仕事になりうる。
まあ、現実に、そういう結婚式の友達バイトとか、添い寝バイトとか、
「ただある」ことが仕事になっているみたいですし、「レンタルなんもしない人」ってドラマも放送されましたね。

そういう、なにもしなくても、サービスになりうるなら、じゃあ、ふみこは、どうしたらいいの?

迷いの森に突入。

つづく。(つづくのか!?)

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