自由への旅、という陳腐なタイトル
「うまれかわり」という言葉を使いたかった。
でも、その場面で、「うまれかわり」という言葉を使って説明するのは、適切ではなかった。意味が分かりにくくなるからだ。
でも、ある人の文章を読んで、そんな意図はいらない気がしてきた。
納得、理解、make sense
そういうもの狙って、書くことは、窮屈。
自分のために書くときと、
人に理解してもらおうと、他者視点で書くときとで、
選ぶ言葉が変わる。
自分のために、自分の理解と排出のために書くことは、とても自然で、身体的で、本能的で、ストレスフリー。
自分の呼吸に合わせて書くので、
なんというか、恩寵の下、大安心の中、書くことができるので、体温が上がり、細胞が鳴る。
他者の視点を想定して書くと、自分の文章に、様々な添加物を加えて、書くことになる感覚がする。
堅苦しく、不愉快だ。長くは続けられない。疲れてくる。
最近動画配信サイトで歌を歌う。ほとんど誰も聴いていないとき、いちばん、気持ちよく歌うことができる。身体に集中して、歌うことができる。
360°立体的に身体を自在に響かせ、歌うことは、気持ちいい。
だが、人が、複数人入ってくると、一気に緊張し、声帯は締まり、音響は自由を失う。
どうしたものか・・・。
歌うときは、このように、自由が奪われやすい一方で、
書くことは、書くときは、いつも、ひとり。
だから、身体の自由さを失わずにいられることが多い。
それでも、読まれる他者を想定してしまうと、自由を失う。
他者が存在していても、物理的に存在していても、自由を失わない有り様を、
もしくは、自由を再獲得していく有り様を、
探している。
後記:
探して、探して、見つけたのは、やはり、手当てだった。手当ては、目の前に人がいても、完全に、とは、行かないかもしれないが、とても、自由だ。
他者の身体の音と、私の身体の気が、影響し合うのを、聞く。その時間は、とても、自由である。
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