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愛しき70年代(序章)


■自分話は恥ずかしいけど…

 この「note」というプラットフォームで、「愛しき70年代」について書いていこうと思い立った。年をとったせいか、僕と言う人間を形作った「70年代のあれこれ」を記録しておきたいと思ったからだ。主に「自分のための」記録である。けっして「昔は良かった」という話が書きたいわけではない。これから書こうとしている「あれこれ」は、音楽、映画、本、旅行、登山、バイク、ファッション、カメラ、コンピュータ…など多岐に渡る。ちなみに、これから書くこの「序章」はかなり酔っぱらって書いている。シラフでこんな恥ずかしい自分話は書けない。
 
 僕は1954年(昭和29年)生まれ、本稿執筆時点(noteをスタートした2023年11月)で69歳になる。ささやかな年金も受け取っている。可愛い孫が3人いる。老境に差し掛かった…、というよりも「老人」そのものである。思えば若い頃、特に18歳で大学入学のために上京して以降は、周囲の人間に迷惑を掛けながら気ままに、そしてそれなりに楽しく生きてきた。勤め人から独立して40年近くも小さな会社を経営し、会社の規模を大きくすることなく、そしてさほど大きな苦境に陥ることもなく仕事をこなしてきた。思春期以降の50年間の人生を振り返ると、時の流れ、「老人」になってしまった現在の自分が信じられない。とはいえ、現在老境にあることが寂しいわけでも悲しいわけでもない。それなりに楽しい毎日を過ごしている。

 僕は、「信条」なるものを全く持たずに生きてきた。言い方を替えれば「信条や信念を持たないことこそが信条」だ。政治的信条などないし、むろん右翼でも左翼でもない。また、生きていく上での「譲れない一線」なんてない。逆に座右の銘は「朝令暮改」「軽佻浮薄」である。中年に差し掛かって以降は、ずっと世の中を「斜め」に見てきた。若い頃から「何かになりたい」「こんな職業に就きたい」「こんな生き方をしたい」といったことを、ほとんど考えてこなかった。「地道に努力する」ことが嫌いだった。状況や成り行きに流されることが心地よかった。さらに僕は飽きっぽい。趣味でも仕事でも一つのことをやり続けると、どこかの段階で必ず投げ出したくなる。

 一方で昔から「やりたいこと」「見たいもの」はたくさんある。「知識欲」「体験欲」は、若い頃から現在に足るまで尽きることがない。特に「体験欲」に関しては、とどまるところを知らない。知識として得たことは、必ず「体験」したくなる。そのために見境もなく行動に移す。突然旅に出たり、新しい趣味を始めてみたり、周囲から見ると脈絡のない行動に出ることが多い。50代は東南アジアでよく飲んだくれていた。還暦を過ぎてから、青春18きっぷで関西方面へ泊りがけで居酒屋巡りに行ったりする。体験欲の延長で「欲しいモノ」も多く、やたらとモノを買い込む。内心での人の好き嫌いは激しいが、対人コミュニケーション能力は高い(自称)方なので、誰とでも話が出来る。この年になって毎日通う飲み屋で友人・知人が増えていく。本当は嫌いな奴からも一方的に好かれたりするのが面倒だ。

 まあ、自分の「性向」「性格」についての話はどうでもいいが、これ程にいいかげんな人生を送ってきた僕にも多少は「変わらないもの」がある。うまく言えないが、例えば「考え方、思考プロセス」「興味の対象」「好き嫌い」…等々だ。こうしたものを総じて「僕と言う人間の本質のようなもの」と考えれば、それは15歳の頃から現在に至るまであまり変わっていないように思う。その「本質のようなもの」が形作られたのは、おそらく1960年代末から1970年代初頭にかけての時期だろう。

■それはサマー・オブ・ラブから始まった

 僕が中学校に入学したのは1967年のことだ。1967年と言えば、アメリカ西海岸で運動としての「サマー・オブ・ラブ」が起こり、たちまち全米を席巻した年だ。ラブ・ジェネレーション、フラワー・チルドレン、後に「ヒッピー」と呼ばれる人たちが作り出した文化が生まれた。同じ頃にベトナム反戦運動と公民権運動の高まりが重なり、1968年にはパリ5月革命、紅衛兵運動に始まる世界的な「異議申し立て」運動が世界中を席巻した。これらの動きが波及した日本でも、ベトナム反戦運動、70年安保闘争、学生運動が全国の大学・高校に拡大し、社会は騒然となった。この時代の僕は、まだ中学生である。しかも、自分で言うのも何だが学業優秀な優等生だった。社会の動きに対する強い興味はあったが、一方でこうした社会運動の実情や意味について深いところで理解できていたわけではない。新宿騒乱、新宿西口広場のフォークゲリラ、神田カルチェラタン、東大安田講堂の陥落などのニュース映像をTVで見ていたが、何となく「胸がざわついた」程度のものだった。中学3年の頃には、左翼運動に傾倒して校内でアジビラを撒く生徒もいたが、距離を置いていた。
 中学生だった僕が社会性に目覚めるにあたっては、中学に入って夢中になったラジオの深夜放送の影響が大きかった。深夜放送の中で流れる洋楽ヒットチャート、読まれるリスナーからの投書、そしてパーソナリティが語る社会性を帯びた話題などを聴く中で、徐々に自分と社会との関わりを深めていった時期だったと思う。例えば、ラジオの深夜放送から聞こえてくる1967年のジェファーソン・エアプレインのヒット曲「Somebody to Love」は、少し僕の胸を熱くしたかもしれない。「サマー・オブ・ラブ」の本質はまだ理解できなくても、時代のアイコンだった「グレイス・スリック」には憧れた。東大安田講堂で籠城する学生と機動隊が対峙する光景をテレビニュースが連日放映していたのは1969年の1月、その同じ年の8月にアメリカのウッドストック、サリバン・ベゼルで開催された史上空前のロックコンサートの模様を、深夜放送のディスクジョッキーが興奮して語っていた。

 そして僕が高校生になったのは1970年だ。僕の高校生活は1970年の4月に始まり、1973年の3月に終わる。この時期は、世界的な異議申し立て運動、国内の70年安保を巡る学生運動の高揚は終わっていた。しかし、いまだ余韻は残り、それなりに激しく社会は動いていたような気がする。1970年11月に三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊駐屯地で割腹自殺を遂げた。同じ年には大久保清による連続強姦殺人事件があった。1972年には連合赤軍による浅間山荘銃撃戦が起こり、テルアビブ空港では赤軍兵士が乱射事件を起こした。こうした時期に高校生活を送ることで、僕の人生は大きく変わった。在籍していたのはそれなりの進学校だったが、勉強面ではなく「頭の良い」多くの友人と巡り合った。本や映画、音楽や政治の話を語り合う友人がたくさん出来た。ブント諸派や反戦高協、反戦高連など新左翼のセクトの加入メンバーやデモに出かける友人もいた。ロックバンドを結成している友人もいた。学校をさぼってロック喫茶に入りびたり、毎日埒もないことを議論していた。
 ロックを聴き、ギターを弾き、反戦フォークを歌った。状況劇場や天井桟敷などの演劇にも興味を持った。親に隠れてバイクに乗り始めた。酒も飲み始めたし、タバコも吸うようになった。安い名画座で見る映画にものめり込んだ。そしてこの時期は、カント、ヘーゲル、マルクス、レーニンからプルースト、ドストエフスキーなどの古典文学、哲学書、現代詩に至るまで、ともかく「本」を読んだ。雑誌「ユリイカ」を愛読した。高校1年生だった1970年に始まって、それ以降の現在の自分を形作ったのは、間違いなく70年代に読んだ「本」であり、そして「音楽」や「映画」だろう。むろん「友人」や「女性」という要素は非常に大きいが、これについては書く気はない。

■読書は時代を反映する

 まずは「本」についてだが、僕にとっての「読書」は「呼吸」とおなじぐらい、自然で生理的なものだ。そして僕は間違いなく「活字中毒者」だ。何十年間も年間数百冊の本を読んできた。多い時期は年間1千冊近い本を読んだと思う(カウントしてないので正確な数は不明だ)。基本的に速読なので、片道15分の通勤時間の往復で1冊読める(むろん本の種類・内容によるが…)。それに就寝前の30分の読書時間を併せれば毎日2冊は読める。ちょっとした小説ならば、昼休みにランチを摂った後、書店の店頭で15~20分立ち読みすることで読了する。同時並行で複数の本を読むことも普通だ。僕は何十年間も、実際にそんなペースで本を読んできた(僕の読書スタイルについてはこちらに詳しく書いた)。

 話を戻して、主に高校時代からの70年代を通して、現在に至るまでの僕のあり方を形作った、また影響を受けた本は、多岐に渡っている。著名な古典文学や学術書、歴史書などを除いて時代性を鑑みて少しだけ作家名で羅列すると、高橋和巳、埴谷雄高、中上健次、島尾敏夫、吉本隆明、村上一郎、谷川雁、澁澤龍彦、菅谷規矩雄、柄谷行人、レヴィ・ストロース、ウィトゲンシュタイン…等々だ。さらに具体的な作品名を少し挙げれば、ジョージ・オーウェル「カタロニア賛歌」、アンドレ・ブルトン「シュルレアリスム宣言」、ジャック・ケルアック「オン・ザ・ロード」、フランツ・ファノン「黒い皮膚・白い仮面」、石牟礼道子「苦海浄土」、平岡正明「あらゆる犯罪は革命的である」…といった作品が強く印象に残っている。そして何より、「現代詩」に夢中になった。雑誌「ユリイカ」「現代詩手帖」などを愛読していた。

 それにしても、こうして当時よく読んだ作家・作品を列挙してみると気恥ずかしいものがある。かなり「陳腐」な読書リストになっている。僕と同世代の人間が若い頃読んだ本として必ず挙げるであろう作家・作品ばかりだ。しかも、今となっては当時どこまで深く理解して読んでいたのか疑わしい本も多い。高校時代に同じような本を読んで過ごした同世代の人間はすごく多いはずだ。まあ、これが「時代」と言うものなんだろう。

 むろんこんな系統の本ばかり読んでいたわけではない。例えば僕は中学時代から「洋物ミステリー」にはどっぷりはまっていた。創元推理文庫は、ほぼ読み尽くした。アガサ・クリスティ、エラリー・クイーン、ガストン・ルルー、クロフツ、ヴァン・ダイク、ジョン・ディクスン・カー、E・S・ガードナーなど古典ミステリーで文庫化されたものなら高校までに読んでいない作品はない、と断言できる。その延長で、80年代以降もサラ・パレツキー、ローレンス・ブロック、ジョージ・P・ペレケーノス、キャロル・オコンネル、トマス・H・クックなどを読み漁り、還暦を過ぎた現在も、マイクル・コナリー 、S・J・ローザン、ドン・ウィンズロウなどの新作は必ず買ってしまう。
 そして、この時代にこれほど本を読んだ理由の一つに、「当時はインターネットが存在しなかった」という事実がある。僕たちはいつも情報に飢えていた。そして70年代の初め頃、情報を得るためには本や雑誌に大きく頼らざるを得なかった。

■アメリカン・ニューシネマに首ったけ

 本の話はこの辺にして、次は「映画」の話だ。映画を本格的に見始めたのは高校2年生から高校3年にかけてだ。僕は名古屋の出身だが、今池、伏見など自宅から自転車で20~30分で行ける範囲にいくつかの名画座があった。暇を見ては映画館に通った。当時は3本立てで150円だったかよく覚えていないが、お金のない高校生でも何とか見ることが出来た。高校2年といえば1972年、3本立て映画の中には「イージーライダー」、「いちご白書」など60年代末に封切られた初期の「アメリカン・ニューシネマ」が多く上映された。あとは「道」「アルジェの戦い」「シェルブールの雨傘」「Z」「ガラスの部屋」など50~70年代のフランス映画もよく上映されていた。

 そんな訳で、高校時代を中心に70年代前半に見た映画で、印象に残っている作品、好きな作品は、「わらの犬」「真夜中のカーボーイ」、「イージーライダー」、「ソルジャー・ブルー」、「バニシング・ポイント」、「いちご白書」、「明日に向かって撃て」、「スケアクロウ」、「フレンチコネクション」、「時計仕掛けのオレンジ」、「俺たちに明日はない」、「卒業」、「ハリーとトント」、「ジョンとメリー」、「タクシードライバー」、「ソルジャー・ブルー」…など、その他にも70年代の映画では、「スティング」、「ペーパームーン」「アメリカン・グラフィティ」「チャイナタウン」「映画に愛をこめて アメリカの夜」「ジャッカルの日」「カトマンズの恋人」「燃えよドラゴン」などが忘れられない作品だ。言わずと知れた「アメリカン・ニューシネマ」が圧倒的に多い。ちなみに洋画だけでなく日本映画もよく見たが、印象に残っている映画にATG(日本アート・シアター・ギルド)の作品が多いのは「いかにも」である。当時の名画座では、大島渚、新藤兼人、今村昌平、若松孝二らの作品をよく見た。こうして好きな70年代の映画作品、影響を受けた作品を列挙してみると、傾向は「本」と全く同じ。僕と同世代の人間が必ず挙げるであろう作品ばかり。汗顔の至りである。本当に書いてて恥ずかしくなる。好きな映画もまた、「時代の空気」を色濃く反映している作品ばかりだ。要するに僕は、昔から流行(はやり)に流されやすいミーハーなのだ。

 ところで映画と言えば、個人的には「音楽」と密接に結びつい記憶している。「真夜中のカーボーイ」の主題歌Everybody's Talkin'、「イージーライダー」で使われたザ・バンドのThe WeightやステッペンウルフのBorn to Be Wild、「いちご白書」のThe Circle Gameなどの曲が大好きだった。

■ザ・バンドこそロックの頂点?

 最後に、その「音楽」について少し書こう。幼少の頃から「ヤマハ音楽教室」に通わされていた僕は当然「音楽好き」だったが、より狭い意味で「音楽に目覚めた」のは、やはり中学生以降だ。ラジオの深夜放送に夢中になったことが大きい。自作した真空管ラジオ、特に中学2年の時に作った「3球スーパー」は結構感度がよく、長いアンテナ線を貼れば名古屋に居ながらノイズ混じりの東京の深夜放送を聴くことができた。ともかく毎晩朝方までラジオを聴いていた。夢中になったのは「洋楽」である。毎週紹介されるビルボードなど洋楽ヒットチャートに登場する曲にジャンルを問わず夢中になった。特に、アニマルズ、ザ・フー、キンクス、そしてビートルズやローリング・ストーンズなどロックが好きになった。

 高校生になると、洋楽の中でも特にロックに傾倒した。そして同じロック好きでも、より傾向がはっきり出てくる。もうビートルズなんて眼中になかった。当時夢中になったミュージシャンの傾向のひとつは、フォーク・ロックとウェストコーストサウンドだ。ザ・バーズ、ボブ・ディラン、タートルズ、ママス&パパス、グラスルーツ、バッファロー・スプリングフィールド、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング、ヘッズ・ハンズ&フィート、グラム・パーソンズなどである。さらにブルース・ロックにはまった。ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ、ヤードバーズ、クリーム、ジェフ・ベック・グループ、そしてレッド・ツェッペリンなどのサウンドだ。当時通っていた「ロック喫茶」で、いちばんよくかかっていたジャンルだ。そしてこれらのサウンドを統合したとでも言うのか、最終的にはアメリカン・ルーツロック系統のミュージシャンばかりを聴くようになった。CCR、レオン・ラッセル、オールマン・ブラザーズ・バンド、デレク・アンド・ザ・ドミノス、ライ・クーダーなどだ。そして、なぜか女性シンガーが好きだった。ジョニ・ミッチェル、ジャニス・ジョプリン、キャロル・キング、エミルー・ハリス…などをよく聴いてきた。

 これらの好きな音楽、好きなミュージシャンの傾向の頂点に位置したのが「ザ・バンド」だ。高校2年の時に友人から借りたLPレコード「ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク」は素晴らしかった。それまでに聴いたどのロックバンドよりも素晴らしいサウンドだと思った。当時ギターで好きな曲のリフをコピーしたりして遊んでいたけど、ザ・バンドの曲だけは簡単にコピーできなかったのをよく覚えている。彼らの曲の多くは作曲をロビー・ロバートソンが手掛けているが、いずれもメロディラインはシンプルで印象的な曲が多い。しかし、バンドとしての5人が奏でるサウンドになると、実に「複雑」に音を積み重ねている。他のバンドとは音の完成度が違うと思った。そして何よりリヴォン・ヘルム、リチャード・マニュエル、リック・ダンコの3人のボーカルが素晴らしかった。還暦を超えた現在でも、ザ・バンドはオールマン・ブラザーズ・バンドと並んで、最も好きなバンドのひとつであることに変わりはない。

 ところで、僕の高校時代、1971年から1973年頃、LPレコードの値段は2500円ぐらいだったと思う。サラリーマン家庭でお小遣いも少なく、アルバイトの時給が250円~300円の時代に、こんな高いものをホイホイ買えるわけがない。高校に入ると金持ちの友人が何人かいて、LPレコードを借りたりしたけど、それだっていつも貸してくれるわけではない。だから当時の音楽ライフはラジオが頼りだったのだが、僕は高校2年の頃に家に「ラジカセ」があったのだ。ラジカセと言っても皆がよく知る「ステレオラジカセ」ではない。あれが登場したのは1978年頃で、僕の高校時代にはまだ存在していない。1972年当時、新しいもの好きの父親が買ってきたのはソニーのFM/AMラジカセだ。むろんモノラルである。ずっと後になって形状と機能の記憶を頼りに機種名を調べたが、おそらく「マイクインマチック CF-1400」だろうと思う。これは便利だった。1970年当時の名古屋では「FM愛知」がスタートしており、高音質でカセットに音楽を録音できた。友人から借りたレコードは、ライン入力ではなく、なんとラジカセのマイクをステレオに近づけて録音したりしていた。
 
 …とまあこんな調子で「本」と「映画」と「音楽」、そして「バイク」と「旅」の話を中心に、このnoteに70年代のあれこれについて少しづつ書いていこう思う。



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