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自分で自分を苦しめる決断なら得意だ。 

とにかくアウトプットをサボってきた人生だった。

だから私は、自分を救ってあげられないのだと最近気付いた。

 「こんなはずじゃなかった。あの頃は良かった。しんどい、辞めたい、家から出たくない。」

そんな言葉ばかりが、綴られるノートを続けて、早1年半経った。

 世の中いろんなコーチングやら瞑想やらセルフマインドケア術が溢れているけれど、結局どれも私を救ってくれはしない。なぜなら自分を救うことを拒否しているのは自分自身だからだ。
と気づけたのは、日々頭をうるさいくらい走り回る自分でコントロールできない言葉たちをひたすら書き写した、ノートのおかげである。


 これを人は日記と言ったりジャーナリングと言ったり、いろいろだ。兎にも角にも、これが、私の初めてのアウトプットと言っても過言ではない。すでに齢2○才である。

 アウトプットの元となるインプットを嫌っていたわけじゃなかった。

わたしは小さい頃から読書が好きで、観劇が好きで、学生になってからは加えて、アニメやらラジオやら映画やら音楽やら、社会人になっても懲りずにリアル謎解きゲームやらvlogやら、誰かの思いや意志の籠ったクリエイションに触れることが大好きだ。(海外旅行すら、そのためのものである。)

 ただし、触れた後、アウトプットをしてこなかった。まさに消費である。

読んで見て聞いて、終わり。好きか、嫌いか、それ以外か。それだけ。心地よさでクリエイションをジャッジすることしかできなかった。
 強いて言えば、私はただ、クリエイションたちに突き動かされたように、誰かの心を揺り動かして衝撃を与えたい。という、暴力的な衝動を得ることはできた。(もしかするとこれが芸術の発端なのかもしれないと、当時も今も思っている。)

 多分、多くの人間はインプットしたタイミングで出てくる自分の声を元に、自分の感情を知り、データを集め、決断を積み重ねていくのだろう。なぜ私はこの時に自分の声から耳を塞いだのかは、わからない。

今からでも、きっと間に合う。はず。

じゃないと、延々と自分の声を無視して、自分を苦しめる決断を続けるまま老いていく。そんなのは嫌だ。私だって、救われたい。

この一行が、今日の投稿が、明日の我が身を救うと信じて。

だから私は眠い目をこすって、明日の仕事のことはひとまず置いておき、キーボードを叩く。


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