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「人財」の恐怖

こんにちは、カオマンガイコダイラです。

突然ですが、私は「人材」という言葉が嫌いです。なぜなら、人間を「モノ」扱いしているように思えるからです。「人材」のみならず、最近では「人財」という言葉も普通に使われるようになってきました。ここまで来ると恐怖すら感じます。「財」というのは人間に使われて消費されるモノを示す言葉だと思うからです。人間(多くの場合、『人財』という言葉を使うのは企業をはじめとする組織ですが)は、人間をモノ扱いしてよいのでしょうか?

「材」と「財」の定義を確認してみる。

「材」と「財」について、国語辞典がどう定義しているのか、みてみましょう。

「日本国語大辞典(以下、日国)」では、「材」を次のように説明しています。
① 材木。木材。
② 能力。才能。もちまえ。才。また、それをもっている人。
③ 製造、加工のもとになる物質。原料材料。料。比喩的にも用いる。

「能力」や「才能」という説明が出てきました。「人材」の「材」はこの意味なのでしょう。であれば、人間をモノ扱いしているわけではないようですので、「人材」という言葉は人間の能力や才能を考慮した言葉であり、その意味で使う分には問題はないのかもしれません(ただ、③にあるとおり「物質」という意味もきちんと存在しているようです)。

念のため、「人材」という言葉も日国で調べてみましょう。
① 人柄としての才能
② 才知のすぐれた人物。役に立つ人物。

用例には「人才」という表記もあり、もともとは「才能」の意味合いが強かったようです。なあんだ、人間をモノ扱いしていたわけではないんですね。「人材」が人間をモノとみている言葉というのは考えすぎだったようです(役に立つ、というのが少しひっかかりますが)。

では次に、同じく日国から「財」の説明です。
① 人間の生活にとって貴重な物質、物品、あるいは金銭など。たから。財産。財物。財貨
② 家にある道具類。家財。什器(じゅうき)。
③ 経済学で、人間の物質的、精神的欲望をみたすものをいう。自由財経済財とに分かれるが、前者は空気や日光のようにそれを手に入れるために対価の支払いを必要としないもの、後者は商品のように対価の支払いを必要とするものをいう。〔国民百科新語辞典(1934)〕

ちょっと怪しくなってきました。ここには「材」にあったような「能力」といった意味はなく、純粋に物質だとか道具だとかいう意味しかないようです。しかも③では「人間の物質的、精神的欲望をみたすもの」とされています。とすると、少なくとも「人財」という言葉は、「人間を(欲望を満たすために)物質扱いしている」ように私には聞こえます。

「ONE PIECE」とキルケゴール

日本の国民的マンガである「ONE PIECE」には、仲間を「これほど効率よくあの女を使えるか!?」と言った敵(読んだことある人は分かると思いますが、アーロンがナミのことを言ったセリフです)に対し、主人公ルフィが「つかう?」とブチ切れるシーンがあります。
このシーンに感情移入できる人は、「人財」という言葉にも違和感を抱くのではないでしょうか?ルフィのいう通り、人間は「使うモノ」ではないからです。もっというと、「財」ではないからです。

同じようなことを、デンマークの哲学者・キルケゴールも言っています。キルケゴールは主著「死に至る病」で、ある種の「絶望」を説明するときに「そういう人(自分では気づかずに絶望に陥っている人)は小石のように研ぎ減らされ、流通貨幣のように流通する」(桝田啓三郎訳より。()内の注釈は筆者)と言っています。つまり人間が貨幣(まさに『財』)のように「使われる」のです。キルケゴールは「そのような絶望は人間社会の中では気づかれず、貨幣のような人間は世の中でうまくやることができる」とも述べていますが、決してそういう生き方を推奨しているのではないと考えます。

こうしてみると、人間を「財(つまり使うことのできるモノ)」としてみることに対して、「おかしいな」と思う人は古今東西にわたって存在するのかもしれません。ただ、「ルフィやキルケゴールがそう言っているから何なんだ」と開き直られたら何も言えません。

ブラック企業

「ブラック企業」という言葉が定着して久しいです。私の偏見ですが、そういう企業ほど「人財」という言葉を好んで使うような気がします。そして、その経営者は社員に対してまるで自分のモノのように(そしてアーロンのように)「使える」とか「使えない」とか言うような気がします。気のせいでしょうか?
もっと偏見をもって推測すると、「ブラック企業」と呼ばれる企業は人間を使い潰すことによって成長してきた。だからこそ「人財」という言葉を使って自分たちの立場を無意識に正当化したがる……のかもしれません。

ただ、「人間を使う」という点においては、ユダヤ人を「絶滅させる」ことを目標に強制収容所を作り、強制労働させながら虐殺したナチスや、日本兵をシベリアに抑留して労働に従事させたソ連、捕虜や現地住民を過酷な状況下で働かせてタイ⇔ミャンマーを結ぶ泰緬鉄道を造らせた大日本帝国と、やってることが変わらないような気がするのです。違いといえば、労働に(正当かどうかわからない)対価が支払われることくらい。

ナチスもソ連も大日本帝国も、その所業から考えると、私にとっては恐怖の対象です。人間をモノ扱いして使い潰しても平気な集団だったからです。「人財」という言葉にも、人間をモノ扱いする意識が隠れているような気がして、私は恐怖を感じます。

言い過ぎかもしれないけれど

たぶんこの考えには、反論がたくさんあると思います。特に経営者や人事の方には怒られるかもしれない。さすがに言い過ぎで独りよがりな考え方と言われればそうなのだと思います。もちろん、企業に社員を人間とみて尊重する意識さえあれば、私はどのような言葉を用いてもいいと考えます。ただ、ブラック企業がはびこっているとされる現代で、「人財」という言葉は暴走する危険性もあるのではないでしょうか。

最後に、子どものことを考えてみてください。子どもをモノ扱いして「使う」と考えている人間はいない(と信じたいです)。それなのに、ある一定の時間が経ち、労働契約を結ぶと(そういえばこの契約においては『使用』という言葉を使いますね)、人間を「財として使い始める」人たちが出てくるのです。
なぜでしょう。皆さんはおかしいと考えますか??

#散文 #人材 #人財  #ONEPIECE #キルケゴール

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