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はたして過去の正答は

読んだ本の一部が、国語の教科書に使われている文だった。

いや、確か高校の教科書だったはずなので国語っていうよりは「現代文」かも。その中の、いわゆる説明文とか論説文とか評論文とか呼ばれるやつ。

今書いてみて改めて思ったけど、国語で使う「説明文」ってカテゴリのネーミングってなんだかな〜。「物語文」「随筆文」と分けるための名前なんだと思うけど。なんだ説明文って。それを言ったら「現代文」もどうかと思うけど。これも先に「古典」があるから、それに対して言えば現代文、ということなんだろうけど。言葉を学ぶ科目のわりにそのへんゆるくない?

まぁそれは置いておいて。

小説は、例えば小学校の教科書の「おじさんのかさ」なんか絵本がすぐに手に取れる場所にあるので、教科書に載っているお話はどこかにその元の本があるのだという認識を小さいころから持てる気がする。

しかし、いわゆる説明文とか論説文とか評論文とか言われているやつは、それがどこか別の形で発表されているものであるという認識をあまりしていなかったように思う。小さいころは本といえば物語(伝記なんかも含む)か、図鑑かという感じで、このカテゴリに触れることが少ない。

大人になってからはむしろこういうカテゴリに触れることの方が増えるが、このカテゴリは玉石混交に大量の本があるので、昔出会ったものに再び会う確率も低くなるのかもしれない。

読んでいたら、その教科書で見た一章が出てきた瞬間に「これ読んだわ!」と気が付いたのだが、しばらくすると「…ここ読んだか?」となり、もう少し読み進めたら「読んだわ!」になった。

これが単純に、印象に残っていた部分と残らなかった部分の差なのか、それとも教科書に載る際に一部がカットされたのか、今それを確かめることはできない。1冊の本から一部だけを抜き取るわけなので、前とのつながりなどを編集されている可能性が高いと思うのだけれど……。ちょっと気になる。

当時は、今読んでいるものが一冊の本を貫く何かでっかい流れの中の一部を切り取ったものだとは、あんまり考えていなかった。

小学校の頃、とある学習参考書に出ていた問題の例文が、自分が大好きな小説から出題されたものだったことがあった。その問題を、私は間違えた。

何故かと言うと、その「正答」が間違っていたから。小説を全部読んだ人間なら、絶対にその解答は間違いだとわかるのだ。(なんなら同じものを読んだ親にも聞いた。)ただ、その抜きだされた一章だけを読んだ人間が、そこに書かれた文だけで判断したなら、その解答本に書かれた正答が導かれるのは理解できる。

ニュアンスで言えば、「なぜA君はBさんに教科書を貸さなかったのですか?」という問題があって、小説を全部読んだ人間には本当はA君が成績の良いBさんに嫉妬していることがわかっているので「Bさんにテストで良い点を取られたくなかったから」だと答えるのだが、問題文の範囲だけで見るとA君が「いやだよ、Bさんはすぐ物をなくすもの」と発言しているので「Bさんが教科書をなくすと思ったから」と答えるのが正解、みたいなこと。

私は国語と言う教科のそういうところを愛していなくもないので、フッ……私が甘かったぜ……という思いはあるのだが、流石にそりゃないだろという気持ちにもなる。一応はよ……文学作品なんだから……。

そういうことが他にも知らないうちにあったんじゃないかな~という気はする。まぁ教科の特性上しかたないので別にいいのですがね……


あっ読んでいたのは内田樹の「寝ながら学べる構造主義」です。「歴史は「いま・ここ・私」に向かってはいない」のくだり。たぶん人間主義の解説のあたりとかをがっつり抜いて再編集してあるんだと思うんですけど……どうなんでしょう出版社さん。

今日はここまで。ありがとうございました。


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