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本当はせつない夜なのに

あの人の涙も思い出せないの

最近気づいたんだけど、私は全然記憶力がないっぽい。いや、厳密に言うと「自分の経験」が思い出せないのだ。暗記はできる。むしろ得意な方。

小学校のころどうだった、中学校のころどうだった……みたいなのが、たぶん人より圧倒的に薄い。周りの人が話しているのを聞くとびっくりする。自分でも思い出そうとしても思い出せないのでびっくりする。

特に苦手なのが、そのときの感情を覚えておくこと。「あのときの悔しさは忘れない」「あの怒りは忘れられない」「あのときの喜びはすごかった」みたいなの、まるでない。できごとを思い出して、確かに今の私から見たらそれは悲しい状況だね、みたいなことは言えると思うし、それで今悲しい気持ちになることはできると思うんだけど、それってちょっと違いません? それともみんな、そういうのを指して「あの悲しみは今も思い出せる」みたいに言ってんの?

確かに、私にひどいことをした人とかも人生ではいたと思うんだけど、そういうのも全然実感として覚えてないんだよな。今また会ったとしても特にどうこうしようとは思わないし、どっかで達者でやっててくれればいいなと思う。恨み、みたいなのないな。全然。

この理由に思い当たる節はあって。どうやら私は人よりも映像の記憶がヘタクソらしいのだ。一度言語にして処理をしているので、映像そのままや情緒そのままでは脳内に取って置いてないんですね。

例えば、「高校で中学と同じ部活に入ったら、人数の都合で誰かがそれまでのポジションを移らなければならなくなって、他の子たちがみんな「移るぐらいなら辞める」と言い張ったので、そういう主張ができないし最も弱小校から来た私が移ってくれないかと先生と先輩に頼まれて、別に私だってそれなら辞めるってゴネたって良かったのに、良いですよ私ヘタクソだし、って飲んじゃって、帰り道に1人ベンチに座ってバスを待ちながら、その話をしてたせいで食べ損ねたお昼の弁当を食べながらしくしく泣いた」というエピソードがあるんですけど、(個人的にちょうどいいぐらいの”嫌さ”が伝わるナイスなクソエピソードだと思う)

これ、思い出そうとすると記憶の中に私がいるんですよね。視点が第三者なの。FPSじゃなくて、私が主人公の映画見てるみたいなのが再生される。これは現実ではないんですよね。一回言語を通して、それを記憶として再構築している。

たぶんこの過程で、悲しいとか嬉しいとか、そういうものが希薄になるんじゃないかなと思っている。言語になる前の悲しみは、たぶん「悲しい」というワードよりずっと濃いので。

「辛い記憶は書いたり人に話したりすると良い」っていうのはそれですよね。私はそれが常時オートで動いてるっていうことなんじゃないだろうか。あくまで仮説ですが。

結果、すっごくぼんやりと生きているなぁという気がする。改善法ないのかな。ないか。私にかつて喜びや楽しさをもたらしてくれた人たち、ごめんな!もったいないなぁとも思うんだけど、どっちかっていうと、世の中の人が過去の経験に対してすごく悲しんでいたり怒っていたりして大変そうだなぁと思うことのほうが多い気がするので、これで良いのかもしれません。これからもぼんやりします。

今日はここまで。ありがとうございました。

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