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評論家のありがたい話

 つまり僕は、人より垣間見た嫉妬や逞しさ、ときにそれは君が言うような陶酔にも及ぶ人間賛歌となり得ることは知っているのだが、美的感覚をより向上させる使命がある先生においてある場面ではそれは邪魔に過ぎぬ感情なのだと認識する必要が出てくるのだ。

 優美な人情を廃して、本質のみを捉える耽美を追求した先生の歩み......。人を愛しながらも周囲に揺れ動く感情の様は、彼にとって大自然の安直な美しさをより素直な形で表現するためだけに利用された。悩める男女の痴話は、背後に整列した銀杏並木の色彩を映し出すために。陳腐とも思える淡い友情の一コマは、煌めいた日差しを寄せて返す瀬戸内海の穏やかな潮騒にあてられていたではないか。
 しかし、何度も言うことではないが、やはり先生は人そのものの力強い生にも余りある愛を注がれていた。問題は、それらを生み出す自然がいま枯れかけているということだけなのだ。我々が見た草木、鬱蒼と繁る山肌、鼻をつく海からの潮風だって、すべては生命を生み出した後、その中の人間の手によって消滅してゆく。

 朝起きて驚くときがあるよ。昨晩、それこそ僕が胸を打たれた山のなだらかな稜線は、夜の闇に溶け込みその境界を消してしまう。だから夜空というものが非常に広く感じられるのだ。そんな新たな発見をした矢先、朝の太陽に照らされたその山肌が、まったくのペンペン草すら生やさない禿山だったと気付かされたんだ。

 母は、手を煩わせる子ほど可愛いものというが、果たして人の手によって駆逐された母なる大地には、いまだ子を愛する心が残っていると思うかい? 父は、生き様を見せることで子に正しいと考えた生き様を投影させるというが、果たして人の手によって下された判断を、大地はどのように修正させるというのだろう。
 事実、両親が出来ることは限られているよ。自らが進んで朽ちることにより、子に痛みを、後悔を、そして道を歩み直した彼等は、破壊に継ぐ破壊の歴史を省みるようになるのだ。彼等は弱い兄弟だ。出来の悪い兄弟だ。種の繁栄はそこそこに、しかし繁栄の未来に不必要な知識に至るまでを欲してしまった哀れな兄弟。結果彼等は最期まで本質に気が付かなかった訳だ。

 先生は人を愛していた。死ぬまでに作られた作品には、美しい自然の中に笑う人間たちの姿が必ず見られた。でも、本質は自然にのみあてられていた。いまは無き壮大であった大自然、母なる大地の暖かい眼差しにのみあてられた。
 ──先生が我々に伝える教訓はなにか。
 人類が滅んで久しく、我々アリが闊歩する世において行き過ぎた知識を欲すことなく、ただ毎日の飯にアリつくための生活を送ることだ。ただ毎日の飯にアリつく......そう、こんな下らない洒落を考えつく暇があるなら、晩飯の心配をしろということだ。

 ただ人間がそうだったように、発達した頭脳では自らの進歩しすぎた文化を正確に図ることは難しいらしい。我々は行き過ぎてないか? 行き過ぎてはないか? 自ら身を滅ぼすほどに行き過ぎてはいないか......?

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