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精神的快適さ

「夢は口に出すと叶う」
という言葉をどこかで聞いたことがある。言霊とかスピリチュアル的なことは信じないが、言葉にして話すことは自分自身に言い聞かせるいい機会でもあり、自分がやりたいことを忘れないためには、言語化することに一定の効果があるのかもしれない。

どこの誰が見ているか分からないこのブログだが、自分自身のモチベーションを上げるためにも、この機会に私の夢をここに書いておこうと思う。それは、世界一快適なホステルを作ることだ。

快適な暮らしとは

「快適」と言ったが、それは具体的にどういうことだろうか。ホステルを含む「快適」な場所や居住地とはどんなものだろうか。人によってその基準は異なってくるだろう。ふかふかのベッドに大きなお風呂、ゆっくり寛げるソファーや設備の揃ったキッチンがあり、光がたくさん入ってくるような物質的に充実した住処を持つ生活を快適な暮らしと呼ぶ人が多いだろう。

しかし、果たしてそれだけだろうか?それらは「快適」な暮らしに必ずしも必要なものだろうか?

私は過去5年間、世界中を飛び回り、世界の様々な場所で様々な宿泊施設に泊まってきた。中には快適とは程遠い、というよりも宿泊施設ではなく掘建て小屋と呼んだ方が正しいような場所もあった。全部屋に南京虫がいたゲストハウスや、今にも落ちてきそうな天井裏でネズミが駆け回っているホステルに泊まったこともあるし、真冬の冷水シャワーも決して珍しいことではない。バックパッカーなら、冷水に耐えるか臭いままでいるかの二択を迫られたことは、一度や二度だけではないだろう。

このような場所に、金銭的理由や時間的制限のために仕方なく泊まることももちろんあり得る。しかし自分でも驚くほどの頻度で、このようなみすぼらしい宿泊施設に自ら進んで泊まることがある。もし真隣に全く同じ値段で5つ星ホステルが並んでいたとしても、冷水シャワーにネズミがペットのホステルを選ぶ自分を想像することは難しくないだろう。

なぜあえてそのような場所を選ぶのか。それは、ふわふわのベッドも温かいお風呂も、快適な暮らしの十分条件であって必要条件ではないからだ。物質的快適さがなくても精神的に快適な生活を送ることは可能だ。むしろその物質的快適さが精神的快適さの妨げになっていることも多くある。

私が暮らした二大快適ハウス

おそらく何百という宿泊施設を流離っている私が、今までで一番快適に暮らし、一生ここから出たくないと感じた場所が二つある。一つは現旦那の父親クリスの家、もう一つはトビリシの時の親友アレックスの家だ。両方とも1LKの小さな家で、家具もキッチン設備も辛うじて人が生活できるほどのものしか置かれていない。バス・トイレも全く洒落たものではなく、ただ淡々と水を流しては捌き、その役割を果たしている。しかし、私は気づけばそこに向かい、急かされるまでそこから出たくないほどに、この二つの場所を快適に感じていたのだ。

この二つの家には、もう一つ興味深い点が存在する。それは、両方とも彼らの家がそのコミュニティのハブであり、彼らの家で人々の交流が行われていたことだ。彼らの家がハブ的機能を果たしていたのは偶然ではない。彼らの空間が快適であるからこそ、必然的に人が集まってくるのだ。彼らの家が快適な空間であるのにはいくつかの理由があった。

第一に、どちらの家でも家主がゲストの家の使い方に全く干渉してこなかったことだ。いわば無法地帯であり、このアナーキー状態こそが非常に心地よかった理由だ。勝手に冷蔵庫からお菓子を取って食べようが、シャワーを浴びようが、お昼寝しようが、クリスもアレックスも全く気にしなかった。重要なのは、彼らはおもてなしすらしなかったということだ。別にゲストが来たからと言ってお茶を出すことやゲスト用のクッションを渡すこともない。彼らが提供していたものは、場所だけだった。この無干渉のおかげで、まるで自宅にいるような感覚で友達と寛ぐことができるのだ。

こう書くと私たちゲストが場所だけを利用しているようだが、もちろん彼らの家に行く一番の理由は、ホストが好きでホストに会いたいからだ。だからこそ、いくら無法地帯とは言えど、どちらの家にもホストのに失礼にならないための暗黙のルールが存在した。「ルール」というより、最低限の礼儀という方があっているだろう。まさしく「親しき中にも礼儀あり」だ。クリスの場合そのルールとは、テレビのチャンネル主導権は必ず彼に渡すことであり、アレックスの場合は仕事中のアレックスの邪魔をしないことだった。この礼儀を守っている限り、何をしても彼らは全く気にしなかった。

二人とも、この礼儀がなっていない人は容赦無く家から追い出していた。何をしても許される家で、たった一つの礼儀さえ守れない人は、確かに追い出しに値するだろう。しかしこれは逆に言えば、彼らにとっては、この人として最低限必要な礼儀さえ守っていれば誰でもウェルカムであり、これが多くの人が彼らの家に集まりたくなる二つ目の理由だ。彼らは人を拒むことや差別することが全くなかった。例えゲストが嫌味な人でも、自分と真逆の思考を持っていても、ヒステリックであったとしても、彼らは誰でも受け入れていたのだ。このような本当の意味での多様性に溢れていたことも、彼らの家が快適であった大きな理由の一つだ。

物質的快適さと精神的快適さ

私は、人間はある程度の物質的快適さを持っていないと幸福度は下がってしまうが、ある一線を超えてからは物質的快適さの増加が必ずしも幸福度の増加に繋がらないと考えている。物質的豊かさは必ずしも精神的豊かさに直結しない。食べるものに困っている状態だと幸せをを感じることは難しいが、豪邸や高級車を所有しているからといってその人が幸せであるとは限らない。むしろ富に目が眩み、貧しい人よりも不幸であることも珍しくない。

居住空間に関しても同じだ。ある程度最低限の設備(きちんと睡眠の取れるベッドや衛生的な水回りなど)がなければ、そこで快適に暮らしていくのは難しいが、豪華な設備を持っていたとしても必ずしもその空間が快適な訳ではない。クリスやアレックスの家のように、人が交流し温かい雰囲気を作れる空間でなければ、人はそこに精神的快適さを感じないだろう。絢爛な設備にばかり快適さを頼り、人の繋がりを作り出すことを忘れているホステルを私は無数に見てきた。そのようなホステルでは、どれだけ物質的に快適だとしても、どこか寂しさや切なさがあり、落ち着かなくなってしまう。

ホステルとは、人と人が繋がる場所だ。世界中から宗教も人種も支持政党も違う人たちが集まってくる。元々バックパッカー界に存在する多様性を無駄にしないように、クリスやアレックスのように無干渉なホストになり、誰でも受け入れる精神的に快適なホステルを作ることが私の夢だ。


いただいたサポートは、将来世界一快適なホステル建設に使いたいと思っています。