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協力の美しさ

うわ、まさかこんなことで泣くとは思わなかった…
と不意打ちで感動して涙した経験は多くの人が持ち合わせているだろう。
歳を食うと涙もろくなるという。
私はまだそんな年でもないと思っている。
だけれども思いがけないところでウルっとすることが増えてきた。
経験が増えて共感しやすくなっているのだろうか。

感動というのは美しい感情だ。
様々な要素が感動を引き起こすけれども、
互いが協力しあって何かを成し遂げる姿は多くの人の心を動かす。
甲子園が多くの日本人に愛されている理由もここにある気がする。

私がそのような人間の些細な協力関係に涙したのは、何十人もの世界中の人が協力して晩ご飯を作っている様子を見た時だった。

インドのあるビーチ

私はインドのある人里離れたビーチにいた。その日は1年の中でも特別な日で、その日を祝うために世界中から様々な人が集まっていた。インドのバックパッカーのお祝いごとにはドラッグが付き物だ。私も例外なくLSDを使っていた。おかげで世界はいつもより美しく見えていた。

そのビーチにはホステルもレストランもスーパーも何も存在しない。なのでその日の夜は、隣町の八百屋と魚屋で買ってきた材料をみんなで調理して夕ご飯にする予定だったらしい。語尾に「らしい」と付けたのは、ドラッグをやっていた私は、何が何だか十分に状況の把握はできていなかったからだ。その調理の中心部にいたのが、三ツ星レストランの元シェフのフランス人だ。彼は驚くことにキャンディ・フリップの名で知られている組み合わせ、MDMAとLSDを同時にを服用しながら、そこにいた何十人分の晩ご飯を作っていたのだ。ドラッグをやっていながら、完全に普通の人のように生活している人にはたまに出会うことがある。私も割と平静を装うのは上手い方だが、それがいかに大変かを知っているので、サイケデリックをやりながら全く動じない人のメンタリティには脱帽である。そのフランス人元シェフは、キャンディ・フリップをやりながら、何もないビーチにバーベキューのセットから魚の下処理、細かい味の調整まで全ての指揮をとっていた。

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軍隊的調理

私はというと、ココナッツの木にシーツを括り付けて屋根にしただけの簡易的な「小屋」で、シェフを中心に晩ご飯を作る様子を他のヘビーなドラッグユーザーと眺めていた。途中、ドラッグをやっていなかった無垢な友達が、その小屋が調理に参加できない「役立たず」が集まっているドラッグ部屋だとも知らずに入ってきた。彼は「誰か野菜を切ってくれる人手を探してるんだ。」と ヘルパーを募った。もちろん私たちは、あのシェフほどのメンタリティは持ち合わせていないので、あれだけトリップしている中で包丁を持つことは怖くて想像すらできなかった。あれだけみんなが頑張って調理している中、何もせずにドラッグに耽っていた自分たちの退廃した様子に対する情けなさが「小屋」に溢れ、幻覚剤特有の感覚の共有が起こり、みんながその情けなさを言葉に出さずとも一瞬共有したことが可笑しく感じて、全員笑いが止まらなかった。

一方「小屋」の外では、今までにも増してまるで軍隊のように統率が取れた調理が行われていた。シェフをはじめにいつの間にか "Cooking is organizing" (調理は組織化)という合言葉をみんなが口にしながら料理していた。シェフがみんなをまとめ、それにみんなが従い、その他やることがない人は周りで音楽を流し踊りながら雰囲気を作る。料理している人は、誰が手伝っていて誰がサボっているかなんて気にせずに、みんなに平等に料理を振る舞っている。私たち退廃的役立たずは、みんなのこの努力に感謝しつつ、明日トリップが終わったら全力で感謝し、何かお返しをしようと考えていた。

「ああ、なんて美しいんだ。」
私は純粋にそう感じた。人間がただ晩ご飯という一つの目的に向かって協力し合っている。そこには損得感情なんてなくて、みんなが今できることをしている。そこにあるのは「食べ物」「音楽」「踊り」「自然」といった、人間が部族的暮らしをしていた頃から大切にしてきたものだけだった。きっと人間は昔からこうやってシンプルに協力しあって生きてきて、その感覚は今でもDNAに残っているのかもしれない。そして私みたいな深く考えすぎる哲学者タイプの人間は、人類がこのような「やるかやらぬか」の原始的生活に戻ったとしたら、寄生虫のような生きていくのかと少し情けなくなった。



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