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10年勤めた会社を、退職します。

​​2021年8月末をもって、ちょうど10年間お世話になった(株)ウィルグループ(以下ウィル)を退職します。

この10年、存分に挑戦させて頂いた一方、ミャンマー事業の成長という形でお返しできぬままに去ることに、心苦しさと申し訳なさが残ります。退職まで1週間程ありますが、お世話になった社内外の方々への説明もかね、ウィルとの出会いからミャンマーでの経験などを振り返りながら、今の思いを書き残しておきたいと思います。

1. ホラ吹いて入社(ウィルグループとの出会い)

2011年の夏、前職の秘境系旅行会社を春に退職した私は、手持ちのお金が無くなると、日雇い派遣(携帯の販売員)で稼ぎ、少したまると地方をブラブラ旅する生活を続けていました。将来ミャンマーで事業を起こす、と決めたものの、どうやってそこまでたどり着いたらよいのか分からず、とりあえず周りに言いふらしながら過ごしていました。(なぜミャンマーだったのかは以前書きました。

そんな時、当時ウィルで働いていた友人が、社長(現会長)を紹介してくれるというので「これはチャンス!」と旅先の北海道から急ぎ東京に飛んで帰ったのを覚えています。その席で「ミャンマーで事業を立ち上げたいです!」と何の根拠もなく騒ぐ26歳の若造の話に耳を傾けて頂き、「まずはシンガポールで頑張ってみないか?」というお話を頂いたのが、その後10年も働くことになるウィルとの出会いでした。

2. お試し期間 (成長する組織の文化を学ぶ)

まず配属されたのは本社の採用チーム。さすがに何処の馬の骨とも分からない人間を、即シンガポールの買収先に送り込むのは不安だったのだと思います(笑)。代わりに任せて頂いたのが、グループ初の外国人留学生の新卒採用プロジェクトでした。前職では、新卒として業務を回す役割が求められましたが、今回は真っ白、自分で仕事をつくる自由を与えて頂きました。

この採用チームでの数ヶ月間は、短いながらも貴重な経験でした。バリバリ(どころかバキバキ)働く部分は前職と同じでしたが、経営陣も管理職も若くて関係が近く、上司部下が和気藹々/喧々諤々と議論し、学び、成長し、文化をつくっていくんだ、というエネルギーに満ちた雰囲気がありました。「なるほど、成長する組織はこういう事を大切にしているんだな」とおおいに学ばせてもらいました。何より、自社のミッションやビジョンをお題目ではなく本気で信じているメンバーがいて、浸透する途上の光景を眺めたことは、ミャンマーでゼロから組織と文化を創る際に大きく役立ちました。

その後シンガポールやミャンマーと、グループの辺境で働き続けながらも組織への帰属意識が維持・強化されたのは、この最初の数ヶ月にお世話になった方々から受けたも影響や関係性も大きかったと振り返って思います。新卒生え抜きメンバーが揃う採用チームにおいて、転職組の私は横からヒョイっと入ってきた異物でしたが「こいつをシンガポールに送り出してやろう、海外事業頑張れよ」という思いを持って接してもらったように思います。そうこう3〜4ヶ月している内に、突然シンガポール赴任の辞令が下ったのでした。(余談ですが、この時に採用した外国人留学生1号とは数年後シンガポールで再会し、今も海外事業を支えてくれています。)

3. シンガポール (辛い下積み時代)

シンガポールは、私にとっては辛く苦しい「下積み時代」でしたが、同時にビジネスパーソンとしてプチ修羅場をたくさん経験させて頂いた期間でもありました。送り込まれた職場はM&A直後の小さな人材会社。日本人上司と一緒に、事業を成長させ、グループとして海外事業の経験値を積み、さらに海外事業を拡大していくための土台となることが与えられた役割でした。ここで結果を出さなければミャンマーに行けない、と背水の覚悟で、とにかく数字と達成を追い、また追いかけられた日々でした。笑

今でも思い出すのは、出社初日の出来事です。オフィスには私の机も椅子もなく、歓迎されていないことが明らかに伝わってきました。仕方がないので一人IKEAに行き、自身で使う机と椅子を購入して、周囲の冷たい視線を浴びながら、オフィスで汗かいて組み立てたことがシンガポールでの初仕事だったことを鮮明に覚えています。笑

異なる文化や価値観を持つ同僚と働くこと、数字や結果に拘ること、時間やお金や国境を度外視してでも自分が働きたいと思える仲間を自ら集めることなど、ここで学んだことは数えきれませんが、中でもメンバーの人生を勝たせてあげることは、後年ミャンマーで組織作りを行う上での核となる学びでした。

シンガポールに赴任して1年ほど経ったある日、私のパフォーマンスとモチベの低下をみてとった上司が「ミャンマーで事業を立ち上げたいんやろ? 一緒にミャンマー視察して、ビジネスアイデアを練ろうや」と声をかけてくれたのです。実際に自腹を切ってミャンマー視察を敢行し、ビジネスプランを一緒に考えてくれたのです。このことが一つのスイッチとなり、結局その後2年以上かかりましたが、途中で折れることなく目の前の事業の成長にコミットしながら、実現するまでミャンマーでのビジネスプランを経営陣に提案し続けることができました。ある時はミャンマー進出直前でプロジェクトが頓挫し、シンガポールに出戻りするなど紆余曲折を経ながらも、最後は自分で見つけてきた小さな人材会社と提携する形で事業を立ち上げさせてもらうことができました。

4. 出家でスタート (ミャンマー事業の立ち上げ)

ミャンマーでの生活(最初の仕事)が断髪しての出家から始まったことは、以前書きました。このハプニングが暗示していたかのように、ミャンマーでの事業立ち上げは、予期せぬトラブルの連続に神経を擦り減らす毎日でしたが、今振り返ってみるとかけがえのない時間であり、そのような日々を支えて下さった数えきれない方々には感謝しかありません。

今思えばよく許してもらえたものだと思いますが、提携した現地人材会社の経営状況は厳しく、核となる事業の見通しが曖昧な中でのミャンマー進出でした。私がミャンマーに乗り込んで最初に行ったことは、開発運営していた求人サイト(ほぼ唯一の事業)の収益化断念と開発中止の判断でした。当時、巨人ロケット・インターネットが設立したWork.comm(現在は撤退)がジャブジャブ投資しながら破竹の勢いでシェアを伸ばしており、投資額が二桁違う中で戦うことは現実的ではないと判断し、変わりに求人サイトを無償化することで多くの企業と求職者に使ってもらい、その求職者データを活用して地道に人材紹介サービスで成長しよう、と戦略を定めました。結果、多くの素晴らしい同僚に恵まれたこともあり、ミャンマー事業の核の一つとして、着実に成長させることができました。

5. 黒い業界 (技能実習生の事業モデルを革新する)

ミャンマーでの6年間で味わったビジネスの醍醐味の一つに、技能実習生の事業モデルを多少なりとも革新することができたことがあります。2015年当時のミャンマーにおいて、小資本で短期的に成功できそうな事業と言えば、技能実習生の送り出し事業くらいしか見当たりませんでした。同じ人材業界とはいえ全く畑違い、良くない噂を耳にすることも多く気乗りはしなかったものの、可能性を探るために提携先などのリサーチをしてみることにしました。

結果は衝撃的。「絶対やらん」と思いました。何だこのグレーのバリューチェーンは? 日本にはコンプライアンス意識が欠如している受け入れ企業がざらにあり、本来企業を管理監督し実習生の権利を守るべき監理団体の中には人権意識を持たず利益を追求する人たちが大勢いることがすぐに見えてきました。また、送り出す国の人材会社や日本語学校の経営者たちにもあまり共感はできず、地方から実習生を連れてくるブローカーの中には詐欺師や高利貸しのような類の人たちが紛れ込んでいることも知りました。

一方で色々と悪評の高い制度ではあるものの、実習生やその国の発展のために真摯に取り組んでらっしゃる日本人や現地経営者(人材会社や日本語学校)の方々の存在も見えてきました。何よりも、技能実習生以外には国内の厳しい経済環境から抜け出す術を持たず、この制度を通して人生を好転させてきた数多くの技能実習経験者に会うことで、非常に不完全な制度ではあるものの、しっかりと悪用せず上手く運用することができれば、途上国の多くの若者に機会を与えることができることも見えてきました。

「個と組織をポジティブに変革する」というミッションを掲げるウィルが取り組むのであれば、現在起こっている課題を解決する事業モデルの革新が必要でした。課題は何か? それはミャンマーと日本、本音と建前(実習生制度の理念、非営利の監理団体など)が入り乱れ、各バリューチェーンがぶつ切りで、各プロセスへのガバナンスが効かず、それぞれが利益を追求することで、一番弱い立場の実習生が搾取される構図でした。法律や国境の壁はあるものの、これらのバリューチェンを垂直に統合して、ウィルのミッションとガバナンスで縛ることができたなら、価値ある事業となれることが見えてきました。

お金と時間はかかりましたが、ミャンマー法人だけではなく、関連する日本の事業部やグループ会社の協力による横断プロジェクトによって、実質的に全てのプロセス一気通貫して管理できる垂直統合体制を作ることができました。ある程度の規模を持ち、多彩な仲間がいる組織だからこそ社会で生み出せる価値があることを実感し、それまでは大きな組織や、内部の人間関係を作ることへの抵抗感のようなものがあったのですが、社会における組織の役割を、価値を生み出すための互助組織としてポジティブに、また純粋に捉え直すことができたように思います(会社って、案外いいものだなぁ、と。)

6. ミャンマーでスタートアップ投資 (ファイナンスって面白い!)

垂直統合が成ったとはいえ、①日本に働きに行きたい優秀な人材をこの広いミャンマーでいか見つけ出すか、②日本に行きたくてもお金が用意できなくて諦めざるを得ない若者にいかに機会を与えるか、という課題は残されていました。この二つの課題を、スタートアップへの投資によって同時に解決する道筋が見えたことは、ビジネスの力を再確認し、さらにファイナンスの力に触れることができた貴重な体験でした。

全ての人々のFinancial Inclusion(金融包摂)を目指すフィンテックスタートアップのLinklusionへの出資によるミャンマー 全土への優秀な人材獲得網の構築と健全なローンの提供です。一見すると全く関係ありませんが、Linklusionが提供するサービスは、ミャンマーのマイクロファイナンス業界でトップシェアを誇り、ユーザーであるマイクロファイナンス企業はミャンマー全土で、日本の地銀や信金のように町をくまなく網羅する営業網を持っていたのです。その中でもソーシャルマインドが非常に高い企業とLinklusionを介して提携することで、地方での人材獲得力を一気に拡大することができ、さらに実習生向けの特別な融資プログラムを開発することで、不当な高利貸しや見えない借金から彼らや家族を守り、日本に安心して働きにいける体制を整えることができました。

最初から計画した訳ではなく、進めていく中での出会いや偶然が合わさって生まれた事業モデルでしたが、新たなお金の流れを作ること(ファイナンス)で社会に価値ある事業変革を小規模ながらも実現できたことに、大きな手応えとやりがいを感じました(これが退職後にファイナンスを学ぶ選択に繋がりました)。経営陣やCVC部門が突拍子もない提案を真剣に受け止めてくれた訳ですが、改めてこの10年を振り帰ると、ウィルはいつも私の思いやチャレンジに向き合い、そして応援してくれたのだとつくづく思います。

7. 同僚の理不尽な死 (社員との向き合い方が文化となる)

思えば色々なトラブルがありました。経済的な事情で好きでもない父親くらいの男と結婚させられそうになった女性社員の家族への直談判や、家族が人身売買で中国やタイに売られた話、家族の多重債務の精算、複雑な離婚調停。。。ミャンマーでは事業に向き合うことは、社員が安心して働くために、ミャンマー社会が抱える課題や社員の人生に向き合わざるをえず、売上や利益のずっと手前にある「働く」ことや「ビジネス」すること、「生きる」ことの本質や意味を問われるような日々だったように思います。

中でも立ち上げ直後に入社してくれた20代前半の女性社員が、若くしてガンを患い一人暮らしの母を気遣いながら亡くなったことは忘れることができません。よく笑う社内のムードメーカーで、近所の職場でのオファーもあり、一度は母親の意見で退職届まで出してきたのですが、最後は「この会社が好きだから」と残ることを決断し、毎日2時間近く、ぎゅーぎゅー詰めのバスを我慢して通ってきてくれる、そんな女性でした。

日を重ねるごとに衰弱し、体が痩せ細り、髪の毛がなくなり、抗癌剤の副作用で辛そうな彼女を病室に訪ねた際の会話は、今も心に残っています。

田村: やりたいことは無い? 何でも言ってごらん。
同僚: 働きたい。オフィスに行って、みんなに会いたい。

田村: 不安なこと、心配事は無い?
同僚: お母さんのこと。一人残すお母さんのことだけが心配です。
(屋台を切り盛りする母は、この同僚以外に身よりなく、一人残される)

涙を堪えることに精一杯で、まともに答えることができませんでした。できる限りのことをしようと誓い、Culture Officerとして彼女の雇用を継続し、彼女の言葉を動画に記録し、社員みんなで彼女の残り少ない時間を必死に生きようとする姿や、生きた意味を少しでも受け止めようと努めました。二度の手術の甲斐もなく彼女は亡くなりましたが、彼女の死が迫る中でも前向きに生きようとする言葉や姿勢は、彼女に対する社員や組織の真摯な向き合い方と相まって、私はもちろん多くのメンバーの文化やミッションへの本気度として昇華していったように思います。

生まれた場所や経済環境で運命や生き死にが決められてしまう、十分分かっているつもりでしたが、あらためてこの世の理不尽さ、不条理を痛感しました。ミャンマーのお金持ちは、タイやマレーシアなど医療の整った国で治療を受けます。ミャンマーは盲腸の手術でさえも死に至ることがある医療環境です。日本で生まれていればまず亡くなるはずがない病状だったように思います。

一方で、この一件を通してビジネスや組織、文化の力が人々の生活に与える可能性を感じることができたことは救いでした。唯一の肉親である母親と密に連絡を取り、医療費のために高利貸しからの借金は絶対にしてはいけない(遺族の生活が破壊される)と説得し、社員のみんなから寄付を募り、できたばかりの社会保障制度を利用し、同僚の彼氏の医者からアドバイスを受け、できる限りの対応をすることができました。本人は苦しかったでしょう。でも最後は病室で静かに亡くなり、母親に借金が残ることはありませんでした。「とても恵まれていたよ」と、私への慰めも含んでいたのかもしれませんが、多くの同僚が伝えてくれました。新しい社会保障制度の利用だって、彼女が会社に所属し、制度に詳しい人事スタッフがいたからできたことでした。会社あり、そこに働くみんなが文化で結び付けられていたからこそ、今回の対応ができたのだと少しだけ前を向くことができました。

8. クーデター勃発 (ミャンマー事業のこれから)

様々にことに向き合う充実したミャンマーでの生活は、一夜にして一変しました。2021年2月1日に軍によって起こされたクーデターにより、アウン・サン・スーチー国家顧問率いる民主政権は破壊され、ミャンマーの未来と未来あるミャンマーの人々の生活は奪われました。軍による弾圧により、罪もない市民が1000人近く殺され、それは今も続いています。さらにクーデターによって壊された社会を襲うコロナの猛威は凄まじく、FacebookやTwitterには、毎日のように悲惨なニュースが悲痛な叫びのように溢れています。

クーデター当初の思いはこちらに書きました。ミャンマーから帰国することになった経緯と私自身のこれからについても、こちらに別記事でまとめました。ここでは、ウィルのミャンマー事業と、友人たちと創業した小さな教育会社、そして皆様からお預かりしたクラファン資金による食糧配布について、簡単にご説明致します。

①ウィルグループのミャンマー事業
悔しいものの、縮小します。2030年を見据えた大きなチャレンジの一歩目となるはずだったSaas(クラウド会計、クラウドHR)事業と、順調に成長し始めていたデザイン事業は撤退します。国内人材紹介事業は、日本人担当者をおかず、成長した現地メンバーにて規模を縮小し継続致します。海外人材事業(介護人材の育成、送り出し)の継続にはこだわりました。

口にすることに大きな躊躇いがあるものの、ミャンマーはこれから長い長い暗黒時代に逆戻りする可能性があります。3年〜5年、、、さらに長くなる可能性すらあります。凄まじい貧困が蔓延し、いくら努力しても報われない社会、2011年以前の状態へと逆戻りです。2011年以前、若者が唯一希望が見出せたのが「海外」でした。就労、留学、難民、結婚と形は様々ですが、あまりに巨大な理不尽に覆われたミャンマーにおいて、「海外」に脱出する以外に選択肢はありませんでした。ウィルのミッションに照らし、せめてそのお手伝いがしたい、という思いで事業を存続させます。

幸いにも、退職後も組織と事業を継続して成長させてくれると自信を持って言える、優秀で頼もしい仲間に恵まれました。また本当に有り難いことに、非常勤でのアドバイザーとして引き続きミャンマー事業に関わり続ける機会も頂きました。新体制のミャンマー事業も、これまで同様お引き立て頂けますと幸いです。
②Kids Labo事業
ミャンマーで知り合った友人たちと創業した、小さなSTEAM教育の会社TiamのKids Labo事業は、小さいながらも継続中です。コロナとクーデターにより1年以上も公教育が麻痺する中でも、現地社員の奮闘によりオンラインによる教育の機会を提供し続けています。また資金提供下さる日系企業と日系NPOの尽力により、養護施設でのプログラミングを通したSTEAM教育も継続しています。細くても、ミャンマーの未来に繋がる大切な取り組みとして紡ぎ続けたいという思いでいます。
③クラファンによる食糧支援
わずか3週間で1500万円ものお金を皆様からお預かりしたクラウドファンディング活動については、新型コロナの感染爆発によりさらに混乱が広がる環境下ではありますが、食糧配布に加え医療支援も交えながら、地道に支援活動を続けています。軍による弾圧で人道援助従事者にまで死者が出る中、現地のローカルNGOメンバーは、細心の注意を払いながらも危険を承知で活動を継続しています。9月〜10月にはお預かりした資金での支援が終了する予定ですので、その後あらためて報告の機会を設けさせて頂きます。改めまして、ご支援頂きました方々にお礼申し上げます

9. 全ては運 (感謝)

つくづく人や運に恵まれたなぁ、と思います。結局ウィルグループに出会えたのも運、シンガポールに行けたのも運、そこで腐らずに頑張れたのも運、ミャンマーで事業立ち上げできたのも運、多くのお客様に育てて頂いたのも運、素晴らしい上司や仲間に恵まれたのも運、素晴らしい経験を数多く得られたことも運。出会いを大切にし、努力することは大前提ですが、出会いを大切にしたり努力することが大切だと思えるような教育を施されたことそのものが運。日本という国と、尊敬できる両親の元に生まれ落ちたことがそもそもの幸運の始まりだったのだと思います。

ミャンマーでクーデターが起こったことは、不運だと言うこともできるでしょうが、きっと数年後には「あの事があって今があるよね」と思っているに違いありません。自分が飛び抜けて幸運であったこと、それらを運んできて下さった全ての方々への感謝の思いを忘れずに、退職後の人生を歩んでいきたいと思います。私が幸運に恵まれた一方で、不運に不運を重ねる人生を送らざるを得ない人たちがこの世界には無数にいること、不条理で理不尽な物事がまかり通っていることもまた忘れずに生きていかなければと思います。感謝の思いを形にすること、理不尽な世界に微力でも挑戦することを、これからの人生における指標にしたいと思います。

この10年間に出会い、お世話になった全ての方々に、心より感謝申し上げます。

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