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クーデターに直面して、日本人ビジネスパーソン(私)がすべきこと、思うこと。

私は何をすべきだろう?

仕事を止めない。 事業を止めない。 経済を止めない。  

ミャンマーに住む一人のビジネスパーソンとして、これが私がすべき唯一のことではないか、と思っています。

私はミャンマーに6年暮らし、「ミャンマーの民主化」の恩恵を受けてきた日本人の一人です。色々な意見があるとは思いますが、なぜ私はそう考えるのかを、少しでも多くの方々に知って頂ければ幸いです。

2月1日(月)にミャンマーで国軍によるクーデターが発生してから、今日で5日が過ぎたことになります。

最初の数日は、社員の安否確認やインターネット遮断に対するコミュニケーション手段の確保、事業継続への対応に追われ、落ち着いて考える余裕はありませんでした。一方で、クーデター発生翌日にはすでに活動が始まっていた民主主義の継続を求める人々による"Civil Disobedience(市民的不服従)運動"の広がりを、絶え間なくFacebook上に流れてくる様々な情報の中に眺めながら、しこりのような感情を胸に感じていました。

私に何ができるのだろう? 私は何をすべきなのだろう?

目の前の対応に追われ、ミャンマーの人々のために、「何ができ、何をすべきなの?」という最も大切な問いに向き合うことができていない自身の不甲斐なさが、そのしこりの正体だったように思います。

民主化までの暗く長い苦難の歴史

ミャンマーのヤンゴンに暮らしてもうすぐ7年目。これまでに70以上の国を訪れ、5カ国7都市に住みましたが、故郷を除けばヤンゴンは、36歳の私が最も長く住み、最もお世話になり、最も愛着がある街です。

この6年で、事業を始めて少しずつ大きくしていく中で、本当にたくさんのミャンマーの方々にお世話になりました。国内の多くの町や村にも足を伸ばしました。いつも知人友人、旅先で出会う方々に助けてもらいました。誰に騙されることもなく、誠実で尊敬できる多くの仲間を得て、事業を作る苦しさはあれど、ミッションの実現に向け皆で走る日々は充実していました。

そんな人生の恩人とも言えるミャンマーでクーデターが起こり、アウンサンスーチー国家顧問や政権与党の閣僚が多数拘束されました。2015年に自由と民主主義を手にするまでに、ミャンマーの人々が耐え忍んできた長い長い苦難の歴史を思うと、胸が締め付けられる思いです。

イギリスによる植民地支配、日本軍の進攻、戦後の独立、独立後の内戦とそれに続く半世紀にも及ぶ長い軍事政権と、ミャンマーの近現代史は苦難の歴史そのものです。その間、何度も民主主義への挑戦と挫折がありました。1988年の民主化運動(8888民主化運動)は、数千人の死者を出して鎮圧された言われています。アウンサンスーチー氏が現政権与党である国民民主連盟 (NLD)を結党したのもこの年でした。1990年に実施された総選挙では、NLDと民族政党が圧勝したものの、軍によって議会招集は拒否されました。2007年には、ジャーナリストの長井健司さんが取材中に射殺され、日本でも大きく報道された反政府デモ(サフラン革命)がありました。

5日前に起こったクーデターによって、今私の目の前で奪われそうになっているミャンマーの民主主義とは、このように長い年月をかけて、数多くの人々の命や人生の犠牲の上にようやく実現したものなのです。それを私のような部外者とは異なり、自身のもしくは家族の体験として感じているミャンマーの人々の気持ちを思うと、彼らの怒りや悲しみ、やるせなさを思うと、言葉も見つかりません。

民主主義の希求が私をミャンマーに連れてきた

2011年に「ミャンマーで事業を起こしたい」と私が思い立つことができたのも、ミャンマーの人々の自由と民主主義を希求する数十年にわたる取り組みが、民政移管・経済開放へと結実し、外資への扉が開かれたからに他なりません。ミャンマーの人々の民主主義を求める強い思いが、私をミャンマーに連れてきてくれたと言っても過言ではないのだと、クーデターが起こって初めて気付かされました。

しかし今、目の前で人生の恩人とも呼ぶべき「ミャンマーの民主主義」が奪われようとしています。この状況において、一体私に何ができるのだろう、何をすべきなのだろう、、、一介の日本人ビジネスパーソンに何ができるのだろう、、、

Thant Myint-U氏の言葉

心に浮かんだのは、尊敬するThant Myint-U氏がクーデター初日にTwitterに投稿した言葉でした。

誰もが政治について考えていますが、経済的困難な状況にある人々のことも考えて欲しい。2020年以降、数千万人の生活が危機にみまわれ、貧困率は16から60%へと急激に悪化しています。今ミャンマーに必要なのはワクチンであり、公平な経済の回復なのです(クーデターではない)。

Thant Myint-U氏は、アジア人初の国連トップを務めたU Thant氏の孫にして、ミャンマー史に関して最も高名な歴史家でもあります。若き頃は1988年の民主化運動に身を投じ、その後は国連機関での仕事や研究活動を経て、2011年の民政移管でも、軍部・民主化勢力・欧米政府の間に立って活躍しています。日本語に翻訳されているのは一冊のみですが、ミャンマーの民主主義運動と「ロヒンギャ問題」を含む複雑な民族問題を理解するためには必須の近現代史なども執筆されています。

そのThant Myint-U氏の「政治だけではなく、生活に困っている多くの人々に思いを寄せよう」という言葉にハッとさせられ、私がすべきことを教えられた思いがしました。

ただの外国人である私がSNSの片隅で何かを叫んだところで、私の溜飲は下がれど、状況は何一つ変わることはないでしょう。軍政権下では、社員の雇用や事業を守るという最低限のことにさえ、むしろ悪い影響が及ぶかもしれません。

そうではなく、私がすべきことは別にあるのだろうと思います。クーデターというショッキングな政治的イベントのみに目を奪われるのではなく、長引くコロナ禍によって本当に厳しい生活を強いられている多くの人々の方を向くことが「何をすべきか」と考えるスタートラインだろうと考えるようになりました。

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(写真:クーデター2日目のヤンゴンの町の様子。変わらない人々の生活があります。)

仕事・事業・経済

経済は社会の血流であり、その地で暮らす全ての人々の活動の源泉であるとするならば、これから長く続くかもしれない「再び民主主義を勝ち取る活動」を支えるためには、持続的な経済もまた必要とされるはずです。

昨日Facebookである投稿のシェアが目に止まりました。国軍が出資するMyTelという通信キャリアのエンジニアが、自分の社員証を公開した上で、クーデターに抗議して退職したことを報告する内容でした。その投稿の最後に書かれていた「寄付はいりません、仕事を探しています」という言葉にハッとしました。お尻を叩かれた気分になりました。

ミャンマーでは、人材/ 教育・デザイン制作・Saas販売・デジタルマーケ支援などの事業を行っていますが、業種業界に関係なく雇用を維持し、できればより多くの雇用を生み出すことが、一介のビジネスパーソンである私がすべき最も大切な貢献なのだろうと思うようになりました。このような混乱の中でも目の前の仕事を粛々と行い、地道に事業を成長させることが、結果として微々たるものであれどミャンマー経済に貢献し、人々の活動を支えていくことになれば、という思いです。

仕事を、事業を、経済を止めるな

2月3日(水)には、米バイデン政権が「クーデター認定」をし、「制裁」についても検討されています。Thant Myint-U氏は、過去の欧米諸国による経済制裁の有効性について疑問視していたように記憶しています。むしろ、ミャンマーの人々を貧困というより困難な状況に追いやっただけではないか、と。

例え全面的な経済制裁は回避され、軍高官や軍と繋がりが深い関連企業向けの制裁に限定されたとしても、欧米諸国からの民間投資や経済援助は大きく影響を受けるでしょう。折しも本日、ミャンマーのビール市場で8割という圧倒的なシェアを握っていたキリンが、軍の関連企業である提携先と合弁を解消すると発表しました。このような影響は避けられないものの、2011年以前の軍事政権時代、日本はミャンマーに対して欧米とは距離をおいた外交を行ってきた過去があります。この文脈において、日本人ビジネスパーソンとして、私にはできることがあるのではないかと、考えています。

軍政への圧力をかけ続けることと、経済的な事情で日々の暮らしも苦しい多くのミャンマーの人々に寄り添うことの両立という難しい問題に、私自身を含め、国際社会は向き合う必要があるだろうと思います。

私一人でできることは本当にわずかなことかもしれません。しかし、例えわずかな力であっても、それが自由と民主主義を求めるミャンマーの人々の生活を支え、再びその手に勝ち取るまでの「長い闘い」への支援になればと思うのです。

仕事を止めるな。 事業を止めるな。 経済を止めるな。

そのような思いで、自分ができることを粛々と行って参りたいと思います。

(追記:2021年3月8日)
銀行が1ヶ月以上閉まり、経済が凍りつく中で事業を通してできることが限られる中で、できることをしようとクラウドファンディングに挑戦中です。ぜひ、皆さまのお力をお貸しください。



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