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大地の果てまで歩いてみたら(サンフランシスコ)

サンフランシスコで最初にしたかったこと

ドバイからロンドンを経由してサンフランシスコに着いたのが5月12日。6年暮らしたミャンマーを後にしたのが昨年の5月14日だから、ちょうど1年が過ぎたんだな、とぼんやり。

サンフランシスコにやってきて最初に頭に浮かんだのは、いつだったか友人に勧められて読んだレベッカ・ソルニット『ウォークス 歩くことの精神史』の冒頭のシーンだった。

「岬をたどりながら」と題された第一章で、サンフランシスコ在住の著者が「歩くこと」=「歩行の歴史は知られざる書かれざる秘密の物語だ」と語り出す。至極の言葉が鏤められたこの作品の始まりの舞台が、たしかゴールデンゲートブリッジ近くの公園だったはずだ。公園名は特に覚えていない。歩いた先で「日本まで遮るものなく広がる太平洋の眺望に迎えられる」という一節がイメージとして強く頭に残っていた。

Google Mapsを開いてみる。ゴールデンゲートブリッジの西、太平洋を望めるであろう先端に、何とも抗し難い響きの公園を見つけた。「Lands End(大地の果て)」。8.8マイル、14kmと少し。よし、今日は時間がある。歩こう。

想像力は二本の脚が踏みしめてゆく空間を変容させると同時にそこから影響を受けてきた

(歩行の歴史は)さまざまなフィールドを横切ってゆくが、どこにも長逗留はしない 

レベッカ・ソルニット. ウォークス 歩くことの精神史

Twitter本社とホームレスと「本当に難しい問題」

住んでいるミネルバ大学の学生寮から大通りのMarket St.を歩いてゆくと、Twitterの本社がある交差点に当たる。入れ墨だらけの二人の白人が罵り合っていた。この辺りだけでも路上生活者は数百人を超えるだろう。モクモクとした大麻の煙と糞尿が混じりあった匂いが、あのサンフランシスコの目抜き通り、という現実にも慣れてきた。

Twitter本社

治安悪化と空洞化が進むサンフランシスコのダウンタウン。特に私が住むテンダーロイン地区は「治安最悪」らしい(その分安い)。毎晩、奇声や罵り合いの叫び声が部屋まで響く。何も知らず到着してから周囲の雰囲気に戸惑った。Twitter本社が移転してきた背景にも色々あるらしい。

MBAで最も感銘を受けたクラスの一つ"Social Entrepreneurship"を教えてくれた連続社会起業家でもあるインド出身のArjita Sethi教授との会話を思い出しながら歩く。「サンフランシスコに住んでから3回襲われたことがあるわよ。一回はナイフを持った男性に追いかけられて、一回は顔を殴られたのよ。」ホームレス支援事業に関わったこともある教授も、さすがに今のサンフランシスコの状況には辟易しているように感じられた。

世界のイノベーションを牽引する名だたるテック企業を生み出し、有り余る資金がありながらも、足下の社会問題すら解決できないんだな、と皮肉まじりに思う。いや、それだけ根深く複雑な問題なんだろう。世界中から尊敬を集める起業家やイノベーターが解決した問題とは、凄いことなんだけれども「そこそこシンプル」であって、サンフランシスコのホームレス問題や日本の介護問題、ミャンマーの民族問題や世界中の様々な社会問題と比べると、実は難しい課題じゃないんじゃないか、と思えてくる。

市場の力とイノベーションのタッグは非効率な市場を効率化し、ある種の問題を緩和したり解決してくれるとともに成功者や勝者を生み出して有名にする。だからこそ、真に尊敬されるべきは、成功や勝ち負けがつかず、マーケットの力が働きにくい世界で「本当に難しい課題」に取り組んでいる人たちなんじゃないか。スケールもせず、経済価値は低くとも、そこで小さな変革を生み出している人たちこそ偉大な起業家なんじゃないだろうか、などと思考が彷徨う。

ドバイに住み始めた頃には張り切って聞いていたReid Hoffman(Linkedinの共同創業者)のポッドキャスト"Master of Scale"もいつの間にか聞かなくなってしまった。対照的に、感動したArjita Sethi教授の講義の課題本のタイトルが"Small is Beautiful"だった。経済学者であり哲学者でもあるF・アーンスト・シューマッハー1973年出版の"Small is Beautiful"を下敷きにしながら、アメリカの小さなヨガスタジオの経営課題のケーススタディと絡めながら議論を進める。それぞれとても大きな独立した分野でもあるビジネス、教育、そして哲学がとても深いところで混じり合い、一つの存在として「あぁっ」と理解させてくれる、そんな得難い体験だった。最近古い友人と対談した際にも、この話をしたばかりだ。

Twitterと言えば、この5月に取締役を退任したばかりの創業者Jack Dorseyは、ミャンマーと縁がある世界的起業家の一人でもあった。彼は瞑想修行のためにミャンマーに滞在していたことがあり、プチ出家した私は勝手な親近感を持っていたりする。買収に名乗りを挙げたEalon Maskも、Teslaで働くミャンマー人社員から「Starlinkをミャンマーで使えるようにして欲しい」との訴えに「米国政府が許可すればやる」と短い返信を返していたりする。ウクライナでのStarlinkの迅速な提供を見るに、ミャンマーのケースでは米国政府が認めなかったのだろうか。

歩く子どもがいない街

久しぶりに歩くので色々筋肉が足りてない。お尻の筋肉に力を入れながらややフォームを意識して歩く。

テンダーロイン地区から少し離れると街に落ち着いた雰囲気が流れはじめ、歩く私の緊張感もほぐれてくる。Waller St.に入るとこのエリアでは見ない大きめの集合住宅があり、ちょっとした公園のようなスペースも併設されている。きれいにブロック分けされたサンフランシスコの住宅街の、同じデザインは一つとして無さそうな玄関口の装飾は、いくつ見ても見飽きることがない。歩道がよく整備され、コンパクトなサイズと相まって歩くには最適な街なのに、歩いている人が随分少ないのはどうしたことだろう?

The Panhandleという1kmほどの細長い緑の帯のような公園に沿って、ゴールデンゲートパークに向かう。街の真ん中に、突然大木がにょきにょき生えている。サンフランシスコに来る前に1週間ほど滞在したロンドンと、街の趣がどこか似ているように感じるのは気のせいだろうか。大木が繁る森のような公園が町中にいくつも点在していて、散歩やランニングする人、犬と遊ぶ人、芝生に寝転がって読書するお一人さんやカップルが楽しそうに過ごしている。

The Panhandle

時刻は16時頃。日没時刻は20時半頃のはずなのに、たくさんの大人を目にする一方、子供の姿はほとんど見ない。日本なら学校帰りの児童が歩いていたり、放課後の遊びに連れ立った子供たちが自転車で走り回っているはずなのに、不思議と子供達のグループを街でも公園でも見かけない。安全性の問題なのか、子供連れの家族はサンフランシスコを出て郊外へ行ってしまったのか、親の車での送り迎えとスクールバスが、子供の街歩きを奪って久しいのか、、、平日のサンフランシスコの街には、住宅街にも公園にも、地元の子供たちの姿がをあまり見かけなかった。

レベッカ・ソルニットは例の本の中で、いかにアメリカの都市が歩く公共空間を失ってきたのか、徒歩ではなく車を中心としたデザインと郊外化、それによって失われた身体性を詳しく議論していたように思う。「子どものいない街」を歩きながら、そんな色々が頭に立ち現れては流れていった。

メニューの消されたミャンマー・レストラン

東京ドームの84倍もあるゴールデンゲートパークを東から西に7割程歩いた後に北に抜け、34th Aveを北上する。小高い丘の上に沿って続く住宅街を登って下り、Lands End(公園?)の手前まできた。時刻はまだ19時にもなっていない。10km程歩いたので、日の入り前の腹ごしらえをすることにしよう。Google Mapsで"Restaurantes"を探すと、ちょうどいくつか飲食店が集まっているエリアが側にある。適当に歩きながら店構えを見て決めようとするとキャッチーな単語が目に飛び込んできた。

Lands End手前にあるミャンマー料理のレストラン

「Pagan!? むむむ。Pagan Restaurante Burmese & Thai Cuisinesとな!」と独り言を呟きながら写真を一枚撮ってドアに吸い込まれる。懐かしい料理が並ぶメニューを睨んだ後、オーノーカオスェ(ココナッツヌードル)とラペットウ(お茶っ葉サラダ)を注文する。調子にのってミャンマー人のお姉さんに「ラペットウ・ペイバー」とミャンマー語で注文を試みるものの、発音が悪くて全く通じない。「ティーリーフサラダ・プリーズ」と言い直して恥ずかしくなる。

ビールはタイのシンハ・ビールを注文した。メニューには横線で消された「Myanmar Beer」の文字。ミャンマー国軍が支配するMyannmar Economic Holdingsからキリンビールが700億円かけて51%を取得した合弁会社が作るミャンマー・ビールを、クーデター以前は呑気に美味しく飲んでいたのに、今はサンフランシスコのメニューからも消えている。例えメニューにあっても飲む気になれないが、偶然ミャンマー・レストランを見つけて舞い上がった気持ちから、現実に引き戻された。

「大地の果て」で絡まれる

レストランを出ると、随分と肌寒くなっていた。Lands Endの緑地エリアに入っていく。19時半頃だっただろうか。まだまだ明るいけれど、人気はほとんどない。

この先に太平洋が広がっているのだと思うと、心が少し跳ね出した気がした。日本からドバイ、ロンドン、サンフランシスコ、、、このまま西回りで日本に帰国すれば文字通り地球一周だな、といい年して地球儀を頭に浮かべてニヤけてみる。

少し先にノロノロと歩く白人の男女三人組が目に入ってきた。近づくと手にはビール缶。酔っ払っているのか大声でしゃべり散らかしている。気にせず追い越すと、後ろからワーワーと声が聞こえてきた。どうやら私に話しかけていたらしいのだが、めんどくさいことになるのも嫌なのでしばらく無視して歩くと、「無視してんじゃねーよ」という意味が聞こえたので、振り返り笑顔で挨拶をしてみる。3人は私をバカにするような雰囲気でゲラゲラと大声で話しかけてくるが、頻出する「シット」と「ファッキン」以外は何を話しているのか理解できなかった。自分の英語力の無さを実感しながら、少し距離を取ろうと歩きを早めて、先に向かう。

咸臨丸とガダルカナル島の戦い

3人の酔っ払いを振り切ろうと少し歩いたところで石碑にぶち当たった。

咸臨丸入港百年記念碑とゴールデンゲートブリッジ

胸に迫る何かを感じる。あぁ、あの咸臨丸が、幕末の頃にはるばる太平洋を渡ってこのゴールデンゲートを横切り、サンフランシスコにやって来たのだなぁ。艦長はあの勝海舟、通訳のジョン万次郎の伝記は、幼い頃に読んだ本の中でもとりわけ印象深く残っている。思えば小学生時代に読んだジョン万次郎の伝記と『コンチ号漂流記』によって、私の放浪癖の原型が作られたように思う。そう言えば『ウォークス 歩くことの精神史』の原題は"Wanderlust: A History of Walking(放浪癖/旅心:歩行の歴史)"だ。それ以来ずっとWanderlustに囚われて生きてるのかと思うとちょっと笑えてくる。

眼下に広がる水道を、木造の咸臨丸がサンフランシスコ港へと入港してゆく様を想像して、しばらくボーッと立っていたが、後ろから騒がしい3人組が追いついてきたことに気づき、海岸線へと降りてゆく道へと進むことにする。

Lands Endの小道と夕日

少しずつ日も傾いてきた。久しぶりに人の手が入りすぎていない自然の中を歩いているようで、心身が開放される気分だ。草花の匂いがする。風にそよぐ木々のざわめきが聞こえる。海鳥も鳴いている。波音が大きくなってきた。太平洋だ。

太平洋の夕日と波打ち際

右手に海を眺めながら海岸線に沿って歩いてゆくと、左手に展望台のようなものが見えてきた。登ってみるとガダルカナルの戦いの記念碑が建っていた。

ガダルカナルの海戦メモリアル

ガダルカナル島に上陸した総兵力は31,404名、うち撤退できたものは10,652名、それ以前に負傷・後送された者740名、死者・行方不明者は約2万名強であり、このうち直接の戦闘での戦死者は約5,000名、残り約15,000名は餓死と戦病死だったと推定されている。一方、アメリカ軍の損害は戦死者7,100人、負傷者7,789人以上であった。

ウィキペディア:ガダルカナル島の戦い

"By July 1942, Japan’s military juggernaut had invaded and occupied…"で始まる直接的な碑文の内容よりも、アメリカにとっては「Naval Battle=海戦」だったのか、と意外に思う。日本から見たガダルカナル島の戦いの苛烈さ、悲惨さは何度も何かで読んだり聞いたり見たりしたけれども、アメリカ側から見たことは無かった。サンフランシスコ港を軍艦に乗って意気揚々と戦地に向かった多くのアメリカ人の若者もまた、再び母国の地を踏むことなく命を落としたのだ。軍船が行き交った光景を思い浮かべながら、目の前の海原を眺める。

歩く

夕日を見に来たであろう観光客らしき人影がちらほらと見える。とは言え両手で数えられるくらいの数しかいない。夕日が沈むまでにはもう少し時間がかかりそうだが、それまで彼らに混じって待つ気にはなれなかった。展望台を後にして歩くことにする。

Lands Endを抜けて道路に出ると、下り坂の向こうにOcean Beachへの眺望がひらけた。たくさんの海鳥が羽ばたかずに空を舞っている。ポツンと建つトーテムポールが見える。どうしてこんな所に建てたんだろう。かつてこの辺りに暮らしていたネイティブ・アメリカンの部族の復元ものだろうか。アメリカ以前のサンフランシスコは、どのような名前で呼ばれ、どのような風景だったのだろうか。

Ocean Beachを望む下り坂
ポツンと建つトーテムポール

時刻は20時を回っていた。寒くなってきたので帰ることにしよう。サンフランシスコの街を少しだけ踏みしめた二本の脚によって、私はふらふらと連想ゲームのように時と場所を彷徨い、心地よい疲労と共にバスに乗って仮宿に戻ってきた。

再びレベッカ・ソルニットの言葉を思い出す。こらからもノロノロとでもトボトボとでもいいので、二本の脚で歩く人生でありたいものだな、と。

想像力は二本の脚が踏みしめてゆく空間を変容させると同時にそこから影響を受けてきた

(歩行の歴史は)さまざまなフィールドを横切ってゆくが、どこにも長逗留はしない

レベッカ・ソルニット. ウォークス 歩くことの精神史

Lands Endの夕日を向こうに歩く人

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