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幼稚[短純文]

 この頃、よく昔のことを思い出す。 別に、感傷に浸っているわけではない。 あの頃の私がいかに幼稚だったかを、反芻しているのだ。 幼い私は、なぜだか全てをわかった気でいて、それでいてわからないふりをしてやっていると思っていた。 親はこうあるべきで、子供には子供然とした態度があるものだと思っていた。 そして私の家族と私はそれから少しだけずれていて、私はその家族からもずれていた。 それにすら、気づけなかったくせに。

 幼い頃の私は、周りの子供よりも多少は耳ざとく、周りの視線には敏感なほうであった。 自分のことは自分でこなし、母の頼みをよく聞いて、父の教えには素直に従う、よくできた子供だった。勉学はほどほどに出来て、秀才というほどではなかったが、愛想良く、同級生の親や先生に気に入られることも多かったが、斜に構えた子どもだと煙たがる大人もいた。それもわかっていたことだったが、そんな大人はたいていがくだらない理想や思想を押しつけてくる種類の人間だと思っていたので、何か言われても相手にすることを覚えなかった。

 小さい頃から、家の鍵を持たされ、学校から帰っても家には歳の離れた兄以外はいなかった。 兄はほとんど自室からは出てこず、トイレと食事の時以外、顔を出さなかった。 両親は共働きで、2人とも何の仕事をしているかは知らなかった。 母は、スーパーの惣菜や電子レンジで温めるだけで食べられる食材を買い込んで、いつもたいてい夜の8時頃に帰宅する。父は帰ってくることすら珍しく、時折帰ってきても、家に留まることはほとんどなく、風呂と食事を済ませて、短い睡眠を取ってからまたすぐに家を出る。そのせいで、父と認識するまでに多少の年月を要した。

 これが私の知る家族のあり方であった。これが一般的な家庭の形だと私は思っていた。 そして、賢い子どもの振るまいとはこうであると思っていた。
兄は、勤勉で妥協のない素晴らしい人間だった。 母はしきりに兄に、弁護士になってほしい、医者になってほしいと笑顔で伝えていた。その顔はどこか引きつっていた。それに従って、兄は国立の高校に入学し、そして東京大学を目指した。 一度だけ、2人で夕食を食べている時に、兄に将来何になりたいか、聞いたことがある。その、兄は持っていた箸をピタリと止め、視線を食卓に落としたまま、普通の高校生になりたい、と呟いた。当時の私には、それがどういうことを意味しているのか、わからなかった。兄の視線は、どこか遠くに吸い込まれているようだった。
雨が窓を叩いて、落ち着かない日だった。 朝起きて、顔を洗いに出ると、珍しく父が居た。 その顔は、今までに見たことないほど興奮している様子だった。 兄は、泣きながら父の怒号を受け止めていた。 床を見ると、くしゃくしゃになった答案用紙が数枚落ちていて、どれも赤字で高得点が記されていた。 兄は、父から、必要以上の完璧を求められていたようだった。 幼い私は、それを横目に顔を洗って、家を出た。

 私は、年齢を重ねる毎に、文学に興味を惹かれ、それに没頭した。 兄は、自室から益々出てこなくなった。 そんな日々が数年続いたある日、兄は家を出て行った。 たしか、私が中学生になった頃だった。 半ば家出のようにして、地方の大学に進学していったという。 父は、最後まで兄を叱っていたが、母は兄が居なくなってから、落ち着いた様子だった。

 兄が出て行ったあと、父は、兄したような期待を、私にすることはなかった。 そしていつからか、父が頻繁に家に居ることが多くなった。 居間にいた父と目が合うと、どちらさまですか、と言われたのを覚えている。 私は、あなたの息子ですよ、と言うと、父はうつろな目をしたまま、しきりに兄の名前を呼んでいた。 その目には見覚えがあった。 母は、腰を悪くしたようで、家には家政婦が定期的にやってくるようになった。 気さくで、とても朗らかな女性だった。

 色恋を知らない私は、家政婦の女性と仲良くなった。 結果的にいうと、私の初恋の女性は、10も歳の違うその女性だった。 名前をトウコと言った。 身軽でなくなった母と、呆けてしまった父の目をかいくぐることは容易だった。 私は頻繁に、家の中で目を盗み、仕事が終わるのを見計らって、トウコを外に連れ出した。 自分の住む町から少し離れた場所へ出かけていって、くだらない話をしたり、私室で身体を重ねたりした。 胸は弾み、足取りは軽く感じる日々だった。人生で初めての経験だった。
ある日、いつものように喫茶店へ行き、他愛もない話をしていると、将来は何になりたいの?とトウコに聞かれた。 何も浮かばなかった。 ぽろりと、普通の大人になりたい、と言った。 トウコは、そんなのなれるよ、といたずらっぽく笑っていた。 私は、心の中で、自分の何気ない一言が、不可能なことだと思った。

 その後、私は全寮制の高校に合格し、家を出た。 それきり、母と父には会っていない。そして、トウコとは大学を卒業した後、一度きりの電話をしただけだった。 父が死んだ報せだった。私は、わかったと一言だけ伝えて、その電話を切った。 きっと、世の中ではこれを親不孝というのだろう。 家族を省みることなく、自分本位な生き方をしていることを、その頃には自覚していた。

 私は、大学を卒業した後、母が送ってくれていた金を頼りに、文章を書いて日がな暮らしていた。 それが、出版社に見つけられたのは、貯金が底をつきかけていた、26歳の頃だった。

 それからは、取材や打ち合わせと称して人と関わることはあれど、それ以外の時間を1人で過ごした。 それしか私の生き方はないと思った。 今になって、侘しさを覚えることはあれど、どこかに小さな充足感を覚えている。
ひとりで住むには十分な家で、お気に入りの大きな出窓がある。 その窓の外には、公園や団地が見える。 夕暮れのベルがもう少しで鳴ろうという時分、公園で父と幼い子どもがボールを蹴り合って遊んでいる。
白々しく、笑いあっていた。

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