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静寂者ジャンヌ 4 最初の一撃

けさの鳥は、歌が上手になった。
そうしたら、うっかり雲が、浮かんでいたよ。
雨があがった。

さてさてさて

ジャンヌ・ギュイヨンの話の続きだ。

姑と夫に精神的虐待を受け続けて、
死まで考えたジャンヌだったが、
なんとかその痛苦から抜け出そうと
神を探し求めた。

でも、神は、みつからなかった。

ジャンヌは教会で教えられた通りに、熱心に祈り続けたという。
でも、ダメだったという。
それは、祈り方に原因があったのだ。
祈り方と言っても、テクニカルな問題ではない。姿勢の問題だ。

どんな祈り方をしていたのだろう?

自伝では、
「いつも黙想し、絶え間なく神を考えるように努め、祈りを唱え、射禱に努めた」と書いている。

Je m'efforçais de méditer continuellement, de penser sans cesse à vous, ô mon Dieu, de dire des prières et oraisons jaculatoires :

「黙想」méditation は、カトリックの場合は、聖書の一節、たとえばイエスのある言葉について考え、それについて神父さんのお話を聞いたりして、神について深く思いを巡らす祈り方だ。
「祈りを唱える」dire des prières は、「天にまします我らの神よ…」とか、「神さま、○○してください」などと口にする祈り、要するに一般的なお祈りだ。
「射禱」oraisons jaculatoires は短い聖句、たとえば「主よ憐れみたまえ」といった言葉を日々の生活の中でくりかえし唱える祈りだ。(そうした短い祈りの言葉が、息をするように口に出るようになったらしめたものだと、言われる。)

口にするか、黙って頭のなかで考えるかの違いはあるが、いずれも言語を介した祈りだ。
しかし、いくらそうやって祈っても、ダメだったという。

「そうした〈多〉によっては、神が神自身に与えるものを、自分では自分自身にもたらすことができませんでした」という。

mais je ne pouvais me donner par toutes ces multiplicités ce que vous donnez vous-même, et qui ne s'éprouve que dans la simplicité.

〈多〉multiplicitéは、ジャンヌの文脈に沿ってざっくり解釈すれば、言葉によって個々のモノを個々に分節すること。要するに、私たちの日常としての言語活動。
それを通して展開するこの外界、私たちの言語世界。多くの対象のよって構成された世界。〈多性〉の世界だ。

「神が神自身に与えるもの」は、神の自己贈与のことだ。長くなるからまた必要な機会に触れたいが、この場合で言えば、神の実感だ。
神というリアリティーは、外から言語を介して、神を知性認識しようとしても実感できないというのだ。
神そのものの内に入って、神が神自身に与える自己贈与に参与することでしか、神というリアリティーを実感できない、という。
詳しくは、追い追い触れよう。

ともかく、ここでのテーマは、言語をめぐってだ。 


そうやって、教会の言う通りにして、言葉で祈っても、神を見出せなかった。
つまり、神をリアルに実感できなかったと、ジャンヌは言う。

まあ、この時点で既に、ジャンヌが後に教会権力から睨まれる予感が、ぷんぷんしているのだけれどね・・・

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さて、そんな苦しみのなかで、3年が経った。
彼女が19歳の時だった。
ジャンヌは、ある修道士と出会った。
アルカンジュ・アンゲラン(Archange Enguerrand 1631-1699)。

彼については、トロン氏から貴重な資料をもとに色々教わったので、思い切りうんちくを傾けたいところだが、マニアックになるので、ここでは控えよう。また今度の機会にぜひ。

アンゲランはフランシスコ会レコレ派の修道士で、五年間のイタリアでの修行を終え、ちょうどフランスに戻る旅の途次にあった。
たまたまモンタルジに所用があって立ち寄り、町の名士だったジャンヌの父親と面会した。
(なんで、着いてすぐにジャンヌの父親に挨拶に行ったのか、謎だ。もともと面識があったようでもない。実は、これにはワケがあったようだ。それについては、また今度・・・)

ジャンヌの父はその時、重病で瀕死の状態だった。
アンゲランに会って、その霊性に大いに感銘を受けたという。
もともとジャンヌの父も信心深い人物で、しかもその時には死を意識していたから、そういうことに敏感だったのだろう。

その頃ジャンヌは二人目の子の妊娠で体調を崩していた。
父親は、彼女を煩わせたくなかったので、自分が瀕死なことをジャンヌに知らせないでいた。しかし死を前に、会いたい気持ちが募っていたようだ。

おそらく父は末娘のジャンヌを大変に可愛がっていたから、ジャンヌの結婚について後悔し、ずっと呵責の念に苦しんでいたのではないか。

ちなみに、ジャンヌの結婚を積極的に進めた母は、この年に亡くなったばかりだった。

父の病気を知ったジャンヌは、父に会いに行った。
父は、ようやく娘に会えたと喜んだ。そして、ぜひアンゲランに会うようにと、ジャンヌに勧めた。
ジャンヌが心身ともに調子が悪いので、修道士が治してくれるのじゃないかと、そう父親は考えたのだろう。

つまりジャンヌにとって、アンゲランとの出会いは、父親の最後のプレゼントだったわけだ。
お父さん子だったジャンヌにとって、これは無意識レベルで、重要な意味を持ったのではないだろうか?

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ジャンヌはさっそく、アンゲランに会いに行った。

アンゲランは町にあるフランシスコ会系の修道院に滞在していた。
ジャンヌの来訪を告げられて、アンゲランが面会に出てきた。
ところがジャンヌを見て、アンゲランはフリーズしてしまった。

アンゲランはイタリアで厳格な修行を終えて、フランスに帰って来たところだった。そこに突然、目の前に女性が現われたものだから、金縛りにあってしまったというのだ。
「これは夢なのか?」
そう思ったと、アンゲランは後にジャンヌに述懐したという。
フランクな人だったんだな。

アンゲランはジャンヌを前に、立ちすくんだ。
ジャンヌだって困ってしまう。
途方に暮れて、何か喋らなくちゃと、しどろもどろに、自分がいくら祈っても神を見出せないこと、つまり神を実感できないことを、相談した。

すると、アンゲランがようやく口を開いた。
(この言葉は大事なので、語順に忠実に直訳しよう。)

それは、マダム、あなたが〈外側〉に探しているからですよ。それを、あなたは〈内側〉に得ているのに。習慣づけてください、神を探すのは、あなたの〈こころ〉の中です。そしてあなたは、それをそこに発見するでしょう。
C'est, Madame, que vous cherchez au-dehors ce que vous avez au-dedans. Accoutumez-vous à chercher Dieu dans votre coeur et vous l'y trouverez.

 "La Vie"  p.197 

それだけ言うと、アンゲランは書き物を探しに行くと口実をつけて、そそくさとその場を去ってしまった。逃げたのだ。

しかし、このアンゲランのたった一言が、ジャンヌに突き刺さった。
その時の衝撃を、ジャンヌはこう書いている。

(…)彼の言葉は矢となって、私のこころを端から端まで突き刺したのです。その瞬間、私はとても深い傷を感じました。とても甘美で愛おしい傷。あまりに心地よく、ずっと治らないで欲しかった傷。
 その言葉は、私が何年も探していたものを、こころの中に与えてくれました。というよりも、そこにあったのにそれと知らず、享楽できずにいたものを発見させてくれたのです。
 主よ。あなたは私のこころの中にいました。ただシンプルに〈内側〉に戻るようにと、あなたは私に求めていたのです。あなたの現前を感じさせるために。
(...)elles furent pour moi un coup de flèche qui percèrent mon cœur de part en part. Je sentis dans ce moment une plaie très profonde, autant délicieuse qu'amoureuse ; plaie si douce, que je désirais n'en guérir jamais. Ces paroles mirent dans mon cœur ce que je cherchais depuis tant d'années ou plutôt elles me firent découvrir ce qui y était et dont je ne jouissais pas faute de le connaître. O mon Seigneur, vous étiez dans mon cœur et vous ne demandiez de moi qu'un simple retour au-dedans pour me faire sentir votre présence. ”La Vie" p.197

少し細かくなるが、この辺のくだりは、あきらかにアウグスティヌスの『告白』と、アヴィラのテレサの自伝が、念頭にあっただろう。
特に「矢となって、私のこころを端から端まで突き刺した」というくだりは、
天使がテレサの心臓を矢で差し抜きしたという、
テレサの自伝に出てくる神秘体験談がモトだろう。
(このジャンヌの文では「こころ」と訳したけれど、原語coeur は「心臓」でもある。)

このテレサの話は、ベルニーニの彫刻でよく知られる。これ。
wiki から写真拝借 (問題あるかな?)

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アヴィラのテレサ(Teresa de Ávila / Teresa de Jesús) は、16世紀スペインの神秘家。女子カルメル会の改革運動の中心人物だった。カトリック教会では、彼女は聖人として列聖されているので、聖テレサと呼ぶ。彼女の書いた自伝や『霊魂の城』は、神秘家の教科書として読まれている。

ジャンヌが、先行世代のテレサから多くを学んだことは、間違いない。(当時、テレサのテキストは、フランス語訳で流布していた。)

しかしテレサとジャンヌでは、重要な違いがある。
テレサはこの神秘体験を実体験として、少なくともそういう体験は実際にあり得ることとして、ガチで書いている。
だが、ジャンヌは、あくまでも言葉の綾、さらりと、レトリックとして書いている。先行表現の常套句化だ。本歌取りと言ってもいいかもしれない。
彼女が実際に体験をしたわけではなく、そんなつもりもさらさらないのだ。
この違いは決定的だ。

ジャンヌは、いわゆる神秘体験に、実は関心がない。それは、彼女のテキストを読み込むと、よく分かる。彼女は、そういった体験に懐疑的で、むしろ否定的だ。そういう体験レベルにこだわっていると、道を深める妨げになるというのだ。さらに、自分にはそういったエクスタシーのたぐいの体験はないとも明言している。
神秘体験っぽさは、彼女にとって、あくまでもレトリックに過ぎない。この文章には、それがよく現れている。

ジャンヌほど非神秘的な神秘家は、なかなかいないだろう。

* * *
 
さて、アンゲランの言葉は、ジャンヌにとって、スピリチュアル用語で言う、いわゆる「最初の一撃」となった。

それは、内面的な目覚めの体験だった。気づきの体験といったほうがいいだろうか。

IMG_0917のコピー

ジャンヌは家庭に閉じ込められて、
神という名の出口を探し、もがき苦しんでいた。
その出口は外ではなく、自分の内に開かれていたのだ。

ジャンヌは、自分のこころの中にある無限の世界に、はたと気づかされた。

それは自己の発見でもあった。

* * * * *

くどくどしいかもしれないけれど、もうちょっと、書かせてもらおう。

ジャンヌは姑と夫や、家の者によって、人格的自己を徹底的に陵辱された。
主体性を奪われ、たましいが殺されかかった。
しかし、彼女は気づいたのだ。

いくら自分を外側から抹殺にかかってきても、
自分は内側で〈無限〉に開かれているのだ、ということを。

それは、神聖不可侵な、自己の聖域だ。



ジャンヌに限ったことじゃない。
この社会で生きているかぎり、
ぼくたちは誰しも、
ひとりの人格として生きようとすると、
システムによって押しつぶされそうになる。

でも、誰も侵すことのできない、
潰すことのできない無限の聖域が
自分には、あるんだ。

静寂者のはじまりは、この自己の聖域の発見だ。
静寂者は、自我ほどき、自己の消滅とか言うのだけれど、
パラドクサルなことに、
静寂者の道は最初から最後まで、徹頭徹尾、自己肯定の道だ。

この自己肯定感。

なにしろ無限の根拠だから、無根拠の根拠みたいなもんで、
こんなに確かな自己肯定感ってないだろう。

だいたい、自己肯定に根拠なんていらないんだ。

自分は自分だ、すばらしい! (まる)

このアンゲランの短い一言には、静寂者の要点がぎっしり詰まっている。
次回は、アンゲランの言葉を改めてじっくり読み込んでみよう。


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