見出し画像

『利便性向上が広げる教育格差』

 3月12日付、西日本新聞の記事です。九州新幹線開通10年を記念した特集記事です。見出しにあるように、九州新幹線の恩恵を被る人を引き合いに出して新幹線がいかに地域社会への貢献をしてきたかが綴られています。

上のリンクは有料記事なので全文が読めないので少し抜粋して引用させて貰います。(引用文中の「付設中」は「附設中」の間違い)

付設中には女子寮がなく、下宿も認められていない。両親は共働きで転居も難しく、新幹線通学を勧めてくれた。定期代は月約10万円、通学にはバスを含め往復約4時間半かかるが、「新幹線がなければ付設への進学は考えられなかった」と笑顔を見せる。同校は2005年に共学化した高校に続き、中学も13年に女子に門戸を開いた。中高計約1100人の生徒のうち約8割が市外出身。九州新幹線や山陽新幹線で通学する生徒は75人と、13年度の35人に比べ倍増した。

 全国的に名の知られた九州のエリート校、久留米大学附設中の初年度納入金はおよそ¥1,000,000。授業料は年額約¥500,000。この金額をどう捉えますか。
 日本では教育にお金が掛かることはご承知の通りです。私立中学の学費なんて似たり寄ったりで、上の金額が別段驚くような数字ではないでしょう。しかし、上の記事になぞって読み解いていくと少し厳しい現実が見えてきます。
 月の定期代が10万円なら年間120万円の支出です。50万円の学費と合わせると170万円。地方から東京の大学へ進学させようと思うともっと費用は掛かる、という見方はできましょうが、中学就学時の子供の年齢が12歳だと考えると、親の年齢層は40歳前後と言うことになります。世帯収入がいくらあればこうした通学をさせることが出来るのでしょうか。一人っ子であることを前提に考えます。600万円なら収入の30%、恐らく無理です。800万円くらいなら20%程度なのでどうにかカツカツでやれるかもしれません。全国でも九州は平均年収が一番低い地域です。勤続15年程度の働き手がいくらの収入が得られるでしょうか。はたして、両親共に国立大もしくは有名私大出身の共働き夫婦でも一人の子供を通わせられるのか、というレベルの事例だと思います。
 無論、一般的な家庭であれば新幹線通学なんて毛頭思いつきもしないでしょう。自分たちの生活圏でベストな選択をすることになると思います。塾や家庭教師でもお金は掛かります。多くの家庭は限られた経済資源をやり繰りしながら子供の教育にお金を注ぎ込みます。各家庭間の経済格差と教育の格差がリンクするのは否めません。それは甘んじて受け入れざるを得ない現実です。
 記事にもありますがこの附設校で新幹線通学が75人もいるわけです。1学年に10人以上ということです。中高合わせて千人程度の生徒数の中でです。
 東大入学者の親の年収は平均1000万円なんてもう40年前から言われ続けてます。高偏差値帯の私立中高はどこもそんなもんです。これは既存の学校を責めるわけにはいきません。学校は万人に門戸を開いているわけです。時代が進めば進むほど、多くの人に門戸は開かれていくのかと期待を込めてきましたが、どうもそうじゃなさそうです。新幹線通学に見られるように、社会全体がより強固に一部の人間に有利にはたらくように見えます。利便性はお金を持っている人の方が取り込みやすく、それを上手に活かす。そして、仮に同じ努力をしていても、そうした利便性を活用している者に弾かれてしまうのです。

 
 先頭に貼った記事は、社会インフラとしての九州新幹線の波及効果について書かれてます。公共財としての新幹線ならば、万人に与える恩恵について書かれていれば看過することもできたのですが、ごく一部の恩恵にスポットが当てられました。イノベーションは遍く人を幸せにするよりも、持てる者をより富ます結果に繋がる、という皮肉な現実が記事になってるということです。もし、記者さんがそこを意識していたのなら大したものですが。
 この記事、後段は鳥栖にある重粒子線がん治療センターについて書かれてます。往復新幹線に乗って治療を受ければ午後には職場で仕事ができるといったことが書かれていたり、新幹線で通勤しやすいから職員を集めやすいなどといったことが書かれてます。保険適用がされず、300万円程度の治療費が掛かる、正に値踏みされる命の例です。また、新幹線で通勤できることは一般的な事例ではないです。
 
 私は常日頃から子供たちに、自分の勉強の目的を自己実現だけに置くべきではない、と持論を述べてます。私に子供を預ける親御さんの本意には沿わないかも知れませんが、良い環境に生まれたからその恩恵を既得権益とするのではなく、その恩恵を一人でも多くの人たちと分かち合って貰いたいのです。
 不平等は受け容れ難い現実であるにもかかわらず、日本人は不平等には寛容だと思います。多くの人たちが自分自身のステータスを受け容れて日々を過ごしている様に見えます。逸脱できないからなのか、逸脱を嫌うのか、どちらなのか分かりませんが、置かれた場所で咲く花の美徳が語られます。しかし、学びこそがステータスを超える最強の武器であり、学びが平等を成就させるものです。私は、咲きたい場所で咲かせたい、そう思います。もちろん、これは学んであちら側に行けと言ってるのではありません。学んだ末に見える自分なりの幸せを追求して貰いたいのです。
 いつまで経っても教育にお金が必要な世の中は受け容れられません。教育の機会まで一部の階層に偏ってしまうことは、多くの人間の教育機会を奪ってしまうことになります。今すぐどうなるか分からない現状なのですが、私は出来る限りこの厳しい現状を子供たちに訴えます。持てる者には持てる者への語り口、持たざる者には持たざる者への語り口。これは、彼らにこそ社会変革の最先鋒になって貰いたいという期待を託す、私自身の闘い方でもあります。

#教育 #教育格差 #受験 #子育て #格差   #社会時評 #西日本新聞  



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?