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『50歳を過ぎたらダイエットしてはいけない』の灰本元さんは日本のリチャード・ローティだ

強く逞しく生きる人の、眩しいエネルギーを浴びながらでも、生き延びる。弱々しく(死んだように)生き延ばす。そんな「強度なき生」ではダメですか?


最初に謝ります。


前回「『50歳を過ぎたらダイエットしてはいけない』の灰本 元 先生、ロカボで糖尿病が寛解したわたしは「肥満パラドックス」をどう生きればいいですか?」という記事を書きました。わたしのストレートな疑問をタイトルにしたのですが、その後も引き続き読んでいて、第5章「健康で痩せた人をどう考えるか」のなかで、


「一方、痩せた人のなかにも禁煙、健康的な食事、高い身体活動量、適度な飲酒、定期健診などを怠らずに生活しているがゆえにBMI 20以下を保っている人たち、つまり”健康な痩せ“も含まれています(中略)そのような”健康な痩せ“は25年以上生き延びる可能性も十分あります」(P170)


というところから「長生きする痩せとは?」と題し、わたしの疑問の答えになっている部分がありました。そして、

「痩せのリスクを吸収するような健康的な生活を送っている人は、一般の人たちではせいぜい10人に1人でしょう。健康的な食生活を送り、じゅうぶんな強度の運動を行い、喫煙をせず、適度な飲酒をする生活をずっと続けられると自信を持って言えるわずかな人以外は、自らの痩せを過信せず、年齢を重ねたら素直に小太りの方向へ向かうのがよさそうです」(P183)

「『健康な生活』は思ったより難しい」ことなどから、最終的には「医学的に『健康な生活』を送れない普通の人は肥満パラドックスが推奨する小太りが一番いい」(第5章 まとめ P185より)

という結論、というか判断をされるのです。これもわたしの疑問に関わる記述になっていると、後から気づきました(とにかく現実的な方を取る。ということなんだと思います)

糖質制限の批判としてよく見かけるのがリバウンドで、当初は順調に体重が減っても、1年も経つとその9割方がリバウンドしてしまうといいます。わたしも来月あたりで1年になりますが、おとといやった検査で HbA1cは5.8 でしたが食後血糖値は高め、体重もやや増加しています(1年歩き続けたら股関節に痛みを感じて休みがちになったり、やはりいろいろありますね)それでも引き続き『健康な生活』を目指して行きます。

わたしの読み込みが足りなかったことについて、お詫び申し上げます。


ただそれでも、あえてまた内臓脂肪を蓄えるときに生じる様々な弊害(いわゆるメタボ炎症など)により、クオリティ・オフ・ライフが下がること、健康状態がもたらす「心地よさ」が失われると予想されることについては、「第7章 本邦初公開 太る食事術』でふれている部分は特に見当たらず(すでに小太りへと舵を切ったことと、ここでの『栄養治療』が肺癌や胃癌の手術後といった重篤な患者さんから、癌以外にも行うようになったという経緯により)疑問が残されたままです。

この第7章は、いわば肥満パラドックスの実践編となり、この「前例のない栄養治療」を始めた経緯とケーススタディが渡邉志帆さん(クリニックの管理栄養士で、2015年から灰本先生と二人三脚で栄養治療を進めてきたという)による栄養治療解説(および日々のやりとり)具体的に生々しく綴られていくのを読むと、そこにある現場のリアリティに圧倒され、言葉を失ってしまいそうになります(そのような『強度』はこの本の全編を貫いていると感じます)

逆説(パラドックス)と嘘とは違う。現実を取る(重視する)という、灰本元先生の「本当」がそこにはありました。

こたつで書いてる自分が本当に恥ずかしくなります。それでも耐えて、言うのです。


灰本元先生、死亡率(生きろ!)はともかく、クオリティ・オフ・ライフについては、それこそ「二の次」ということになりますか?


生か死か?に直面するのが日常茶飯事な医療の現場において、この究極の選択も日常に迫られるものなのだろうし、後にふれる哲学者・須原一秀さんが指摘された(生活)「右翼性」の重要さと、だからといって(生活)「左翼性」も、全否定することはできない(というのが今回言いたいことなんだけど)それを両立してるのが灰本元さんかもしれない。

Eテレ『100分de名著』がリチャード・ローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を取り上げると知り、久々に観たいと思って録画したのを観ていたら、

ローティは哲学者としてのキャリア形成の過程で、「デカルト批判」「分析哲学批判」に行きつき「近代哲学を葬り去った男」と言われている…というところから番組は始まり…

「彼は同年にはアメリカ哲学会東部部会の会長になっていて、当時の学会に出た人たちの証言によれば、学会会場のロビーに『哲学と自然の鏡』が平積みされていたそうです。その本がまさかの『アンチ哲学』の本だった。より具体的に言えば「分析哲学などやめてしまえ!」と宣言する本だったのです」(朱 喜哲『100分de名著 ローティ 偶然性・アイロニー・連帯』NHK出版より)

「人間に何か本質があるという考え方自体が百害あって一利なしだと切り捨てた」「哲学を全否定した」「(しかも)学会の会長というとても影響力のある立場にあり」「(その本を)受け入れられると思っていた」「結果的にはかなりの反発を食らった」といった朱 喜哲さんの解説を聞いていて、あっ!これはまさに…と思っていたら、


続いて伊集院光さんが…

「ダイエット協会の会長が『痩せなくて良くない?』『そもそも痩せたら健康になるとか、全部違くない?』って言われたみたいな。ほかの人たちが『おいおいおい~!』ってなるみたいな?」

って言ったんですよ!
伊集院光、やっぱ天才的。
(『週刊文春』読んだのかなぁ。だとしてもだ


灰本元さんは医療界のリチャード・ローティだ。


リチャード・ローティ
『SDGS表現論』海竜社
(山中司 上田隼也)
で興味持ったところで



伊集院光さん
普通に知識人ですよね?




2月3日、土曜日、お台場のZepp DiverCityに大森靖子さんと道重さゆみさんのツーマンライブを観に行ってきた。かねてより大森さんが最愛の道重さんを見るときに、その理由をわかりたいと思い、その魅力をわかってきてはいたけれども、道重さんがこの日のMCで「大森さんの愛を、もはや道重さんの方が愛するようになった」みたいなエピソードを言葉に詰まりながら話してくださって…そこから初めて道重さんのすべてが感動的になってしまった(それまで見ていた上手さカッコよさ可愛さの裏付けみたくなったのか)鍛練されたきま優れた技術人はそこにあるプロセスだとか物語とか、感情にしか感動しないのだなと思った。

後半の大森さんライブ、『死神』からの『Rude』がまた凄かったんだけど、

「誰もはみ出さないクソ平和のため 僕だけが僕を殺してきたけど」

「死んだように生きてこそ 生きられるこの星が弱った時に 反旗を翻せ 世界を殺める 僕は死神さ」


また責められる気がしてしまった。


大森靖子は好きだけど、大森さんのブログは見ない(派)の、大森さんからしたらあんまカッコ良くないファンだけど、そりゃ好きな人であるならば、できるだけの情報を取りに行って、知ってることが多ければ多いほど、当然その人のことがわかるのは当然のことかもしれないし…


「『わたくし』が『あなた』とコミュニケーションをとる際には、『あなた』も『わたくし』と同じような世界を持っている、とまずは勝手に信じ込み、なんらかの動きを示すという賭けに出ざるを得ない。この賭けを端緒として『あなた』とのやりとりの積み重ねのなかで、『あなた』についての理論を構成していく。『わたくし』は、常に『あなた』についての理論を稼働させると同時に、それを作り変える努力を払う。『あなた』についての理論が安定し、作り変える努力をそれほど払わなくて良くなったなら、『わたくし』は『あなた』とうまく付き合っていくことができる。このような過程をここでは『学習』と呼ぶことにしよう」

(安冨 歩『複雑さを生きる』岩波書店より引用)

なのでわたしが知らないだけで(つまりわたしの努力が足りないから)大森さんは心配ないのかもしれないし、心配はネガティブになるのでノーサンキューなのかもしれないけども、でもだからこそ言いたい(言える)とも思っていて(弱い紐帯の強さ?)

1月20日(土)カーネーションのライブのゲストで、元気いっぱいに歌い踊ってて、その2日後の22日?に腸閉塞で緊急入院~手術して、その10日後の2月3日(土)に完全復帰のライブって…普通の感覚だったら普通にあり得ないでしょ?(絶対に外せないライブだというのも行ったからこそ分かるけれども)

(情弱なだけかもにしても)やっぱり普通に、大森さんのお体が心配でならないのですよ!この間思ったのは、ちょっとみんな、大森さんを普通の人間と思ってなくない?(いくら天才的な超歌手だからってさぁ)んなこたぁ皆わかってて言わないのかもだけど。ちょっと危険を感じてしまったので(強つよのおたくではない、まさに弱よわ、弱い紐帯のオレが言う!のだ)


もはや国民の宝なんですよ!


今朝ピエール中野さんのツイートを見つけて、こういうフォローが本当に大切だと思いました(大森さんのパートナー、ピエール中野さんがマジ優秀すぎます✨)


わたしも。まったく。
いい歳して。もうダメだ。



オタクとしては最強の部類の、
肉野菜さんのツイートにこそ大共感した!





『高学歴男性におくる 弱腰矯正読本 -男の解放と変性意識-』
と題された本が、今から24年前の2000年に出版された(1月31日初版となっている)

発売当時34歳、俺の本だ!
と思わないわけがなかった。
(高学歴なでもないのに)



「価値や意味に対する感受性と、自分の命と生活を大事にする気持ちとは両立しないー一方が強くなれば、他方は弱くなる」というものです(まえがき より)


右翼ではなく、(生活、生きることにおいての)「右翼性」を説いた本だ。
著者の須原一秀さんは『自死という生き方』という…残して、
2006年4月、本当に自死してしまったけども。65歳で。

須原さんは「結びの言葉ー男の大局観」としてバートランド・ラッセルの次の言葉をまず引いて(長くなるが引用します)

「しかし極端にならなくても、慎重さということは容易に、人生における最良のもののいくつかを失わせることもある。ディオニュソス崇拝者たちは、慎重さに反動するのである。肉体的、精神的な陶酔の中に、彼らは慎重さが破壊したところの強度の感情、というものを発見する(このような)バッコス的要素がなければ、人生は味気無いものとなろうし、それがあれば、人生は危険になる。慎重さ対情熱という対立は、歴史を貫通しているのだが、それはわれわれが、いずれか一方に一辺倒すべき対立ではないのである(強調筆者)

「確かに、一方に一辺倒すべき対立ではありません。しかし、だからと言って、適当にバランスをとるべき問題でも、適当に往復する問題でもありません。人間はそんなにお行儀の良いものではありません。それは《できない相談》というものですーだからこそ、人間は元気なのです。それはまた《半分死んだ人間の視点》であり、歴史が反証するところでもあります。このことが分からない読者はもう一度本書を読み返してください。いずれにしても、何千年も人類史を貫流して連綿と続く、この対立は今後も変わることはないでしょう。私も、ラッセルと共にそう考えます」

そういう本なのです(としか)


自分的には一番の「奇書」だ
(多分まっとうに過ぎるゆえ)


先述の灰本元先生も、大森靖子さんも、結果的にか本来的にはわからないけど、体にいいもんなんか食ってねぇで、うまいもん食って死んだようにではなく、生きるように生きろ!と言っているように思える。どうせ死ぬんだから(これは和田秀樹先生だった)


わたしはといえば、右翼性も、左翼性も、やはりどちらも大切だと思っている。中途半端と言われようが。

それに影響を受けた本に、影響を受けなきゃ良かった?とかも疑っている。
わたしの内面は本で出来ている…などと言うほど全然読んではいないけど、なにかあるとガイドというか、ものを考える際のフレームワークにはなっていたりするので。


(腐っても)本好きわたしにとっての「コロナ禍」は謂わば戦後で、その前と後では、本屋さんにある全ての本が紙屑になってしまった感覚に陥った。そこにある人類の叡知を、分からないことが凌駕した。
昨年からの「糖尿病ショック」もそれに匹敵するものがあって、わたしにとっては「糖尿病事件」だ。


でもこれは、影響を受けた本を賞賛する文章のつもりだ。


手書きが丁寧で…
泣けてくる。



「めっちゃ考えた」って。
『青空』泣けてくる…


58歳のオッサンになって、愛ある選曲のカセットテープ(大森靖子ファン仲間のN/Nさんより)にCD‐R(仕事仲間のS/Sさんより)をいただく人生が待っていたとは!感激の生誕月になりました。



35歳になった春、彼は自分が既に人生の折りかえし点を曲ってしまったことを確認した。いや、これは正確な表現ではない。正確に言うなら、35歳の春にして彼は人生の折りかえし点を曲ろうと決心した、ということになるだろう。


70年の半分の35年、それくらいでいいじゃないかと彼は思った(中略)70年をフルスピードで泳ぐーそう決めてしまうのだ。そうすれば俺はこの人生をなんとかうまく乗り切っていけるに違いない。


そしてこれで半分が終ったのだ
                                      と彼は思う。

1985年10月15日
第1刷発行(の初版本)


二十歳の頃、村上春樹さんが『プールサイド』という短編で「人生の折り返し地点」のことを書いていたのを読んで、今は現在に繋がるニヒリズム?の基になった気がしてるけれど、38年経って改めて読んでみると、春樹さんが物語に託した部分に当時は全然、今も余り興味がないっていうことに気づいたりする(『回転木馬のデッドヒート』に収録)


「人生にとっていちばん大事なことはきちんとした形をとった認識なのだ」



四十代には「人生は8センチ」であるからして…という身も蓋もないところから始まる本に出会い、ヤバいヤバい~と思いつつも、その具体的で実践的な内容、例えば…

「人にほうっておいてもらうには、きっちり借りを返すしかない。そして、そうするためのただひとつの方法が、きみが借りと思っている分ではなく、相手がきみへの貸しと思っている分を返すことだ!そんなの公平じゃないって?だとしたら?それが世の中なんだよ。


「噓のない」リアリズム本に出会ったので(『大人のしくみ』光文社)で、娘に薦めたりしてたんだけど(いい迷惑だよなぁ。でもいま読んでも面白いわ)大人も大人の子供だったりするわけで。


にしても、もはや 6センチ…わたしの人生、残りは僅か2センチしかだ。

「寿命」は延びているのかいないのか


あと2年で死を待つ段階に。


2005年11月30日
初版1刷発行とある

最後のTATTOO



今回も読んでいただき、ありがとうございました!

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