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[ちょっとしたエッセイ]身から出るのはサビだろうか

 先日、友人が誕生日を迎えた。すると必然的に僕の誕生日もやってくる頃合いだ。そうやって時間の記憶を数珠繋ぎしながらなんとなく生きてきた。
 人の誕生日とかは案外覚えているのだけど、自分のことはどちらかといえばどうでもよくて(と、そこまでいうのは嘘になるが)、思わぬところで誰かに覚えていてもらえた方が、うれしかったりする。
 
 そういった誕生日といえば、中学の時だった。僕のいた学校は寮があって、地方から上京してくる学生たちは、そこで一緒に暮らしていた。僕は、それほど学校から遠いところに住んでいたわけではなかったが、親から離れられることが案外居心地がよく、いろいろな理由をつけて、中高の6年をその寮で過ごした。
 そんな寄宿舎には、趣味を中心としたコミュニティーがいくつも出来上がる。小学校から上がったばかりの僕には、聞いたことのない音楽やファンションといった異世界の匂いが立ち込めるこの場所で、なんとか滑り込むように居座ったコミュニティーでその後6年間を過ごすことになった。
 パンクやグランジ、そのほかUKやらUSのロックが中心のこの輪は、なんとなく王道で、なんとなく臭くなくて、そしてダサくなかった。今の僕の中には、この頃の匂いがなんとなく残っていて、源流となる体験となった。
 
 そんな中学3年の時。僕の誕生日のタイミングで2つ年上の先輩から、急に「何欲しい?」と聞かれたことがあった。その先輩は、音楽の趣味も服装のセンスも、時代の1.5列目をしっかり押さえる「目」を持った人だった。テレビや雑誌に載るような最先端のかっこよさではなく、雑誌なんかにはたびたび路上スナップのような形で載るのだが、長い時代の変わらないよさを高校生ながら理解している人だった。例えるなら、オアシスではなくブラーを選ぶような人だった(例えてない!)。しかも気前がいいときた。だから僕は変な期待を込めて、「先輩にお任せします」と伝えた。きっとかっこいいジャージとか、スニーカーとか譲ってくれるんだろうなと内心にやけていた。
 翌日の夜、先輩が僕の部屋にふと現れて、僕は「来た!」とワクワクしながら先輩の方を見た。すると、スウェットパンツのポケットからすっと何かを出して、僕の机に置いた。
「これ、プレゼントね」
 そう言うと、すっと帰っていった。
「あ、ありがうございます」
 そう言いかけた時にはもう先輩はすでにいなかった。

期待とはある種の身から出たサビのようなものかもしれない。サビなんてついているだけで、そのものの価値は下がってしまう。自分で自分の価値を落とすようなものだ。
 先輩が僕にくれたのは、どこかの国のデザインのような小さな人型の置物だった。なぜそれをくれたのかは聞かなかった。そして時が経ち、先輩は卒業をして、その後会うことはなくなった。
 
 でも、誕生日を迎えるたびに、この時のことを思い出しては、なんとなく思い巡らせたりを繰り返している。というのも、その置物自体、まだ僕の手元にあるからだ。こういうものを数十年経っても今だに持ち続けている自分に驚く。その理由がなんなのかいまいちパッとしないのだけど、手放すこともなく、失くすこともなく、あり続けている。

「誕生日プレゼント何が欲しい」
 そんなことを言ってくれる人がいた。けれども、僕はどうも自分の欲しいものが見つけられなかった。というか、自分で欲しいと思う物は、自分で買いたい、もしくは手に入れたいと常々思っているから、誰かからもらうのはどこか申し訳なさがあったし、なんとなく大事にできないように思っていた。だからなんとなく、いつもリクエストには応えられなかった。そしてその人は少し残念そうな顔をしたのを覚えている。
 
 家に帰ると、自分のデスクの脇にちょこんと佇む置き物。何かを語るわけでもないのだが、目に入ると少しだけ時間を遡ると同時に、あれ以降、誰かに物をもらうということの心持ちが変わったのは、君のせいかもしれないと視線を向けてみる。誰かにモノをもらうということは、物を記憶に置き換えるのではなく、案外、記憶が形になり代わり、いつまでも残る可能性があるのかもしれない。あくまで可能性の問題だとは思うのだが。

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