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東京という存在がなによりも弱くてあやふやだった 「ワレ想う故の90年代」vol.06

 現在住んでいる場所は、東京に隣接する土地なのだけれど、生まれも育ちも東京の下町で、今もその感覚は変わらないでいるし、実際に勤めている会社も東京なので、ほぼ「東京」で人生の大半を過ごしている。

 毎日満員電車に乗り、人がわんさかいる都会(日本における東京がそういう場所であることを意識しつつ)を行き来していると、ふとどこか静かなところへ行ってしまいたい、もしくはそんな場所で静かに暮らしたいなどと安易に思ってしまうことがしばしばある。でも、もう少し妄想を広げると、いざその土地に行った時、果たしてやっていけるのかどうか…とか思ってしまって、結局1泊くらいの温泉旅行でいいやと、思考を退けることになってしまう。気持ちの弱い人間だなとつくづく思う。

 時を遡り、もう25年くらい前だろうか。高校2年の時、今と同じように「もうこんなところから逃げてやる」と息巻いた時期があった。ちょうど夏休みの前、好きな女の子にこっぴどくフラれて自暴自棄になっていた。家にいるのも辛いだけなので、リュックに思いつくままに服やら寝袋やらを詰めて、青春18切符を買って、ひとまず西をめざした。とは言っても、目的も何もない。そしてなによりやることがない。鈍行列車の旅というのは、目的がないとこれほどまでに辛いのかということを車中ずっと考えていた。

 この切符は、5回乗降できる切符なので、目的のない僕はひたすら西を目指し、5回目で帰宅することにしていた(帰ることを前提としているところが自分の弱いところだ)。

 だからできるだけ遠くに行きたいのであれば、1回の乗車で朝から晩まで乗り続けることが必須で、日中はひたすら電車に揺られた。

 そんな旅も、3日目に山口県に着いた。東京からはるばる900キロ。なぜ途中、広島に降り立たなかったのか、今でも思い出せないが、その先にある山陽本線の光駅で下車することにした。

 ちょうど夕刻、電車に乗り込む女子高生の群れ。

 大きなボストンバッグを持って、手にはお菓子を持っていたり、ポケベルを持っていたり。そんな彼女らの前で僕はひとりその様子を見ていると、群れの中からひとりの女の子が、僕に声をかけてきた。

「どちらからいらしたんですか?」

 聞き慣れないイントネーションのこの女の子の後ろでは、多くの仲間がこちらの様子を固唾を呑んで、見届けている。僕は東京から来た旨を伝えて、少しでもこの時間をやり過ごすことにした。僕とこの集団に少し気まずい空気が漂うが、光の駅に着いて、ようやく離れられると思いホッとする矢先、彼女らも降りるのだった。

 なんたる悲劇…そう思いながら、彼女たちの後ろを少し離れて降りる。人もまばらなホームで、かち合う先程の女の子がこちらを見たので会釈をした。こんな場所まで来て、人を避けることになるなんてと思っていると、また声をかけてきた。話してみると、彼女たちは高校水泳の県選抜のメンバーで、これから光市のスポーツセンターで合宿だということだった。今夜泊まる場所を探している僕に、彼女はこのスポーツセンターは安価で泊まれるからと、携帯電話で施設に手配をしてくれた。まるで迷子になった猫のように、すっかり保護されることになった。

 宿舎は海沿いにあり、窓から眺める瀬戸内の海は凪、遠くで見える小さな船から放たれる光は、一直線に海を走っていた。

 宿舎のフロアで缶ジュースを買って、外に出ると、大きなバスタオルで髪を拭きながら遠くを眺めている彼女がいた。今日は終わり?と尋ねると、僕の方を向いて頷いた。こちらの人たちは人の懐に入ってくるのが上手だ。フッと手を貸してくれると同時に、自分の間合いに僕を捉え、さりげなく会話する術を心得ている。

「私ね、都会に出たいの」

 この土地が嫌いなのかと聞くと、少し戸惑いを見せ、あなたは自分の土地をどう思うのかと聞き返してきた。僕自身はどうだろう。地方から出てきた友人が、都会の人間は無関心で冷たいと話したが、僕はそう思わなかった。きっとそれは、客人に対する礼儀のようなものが、他人に無関心という印象を与えただけに過ぎない。だから、僕は嫌いではないと答えた。

 缶ジュースを飲みながら、海辺へ向かった。一歩浜辺に入ると、足には乾いた細かな砂がまとい、とても気持ちがよかった。水泳一筋の彼女は、泳ぐことで自分を守っていると話した。来年の卒業を控え、すでに結婚やら就職やらを迫られている彼女の唯一の心の拠り所が水泳のようだった。大会で成績を収め、県外の大学へ行くことだけがモチベーション。明らかに僕なんかより、切迫感を持って生きていた。

「あなたは東京から出えへんの?」

 ふいに聞かれた質問に、どう答えてよいのかわからなかった。無論選択肢はあるだろうが、出ない選択肢の方が強いような気がした。

「ほらな」

 少し皮肉が混じったような言葉が僕を刺すように追いかけた。瀬戸内を走る船がこちらに向けてライトを照らす。彼女の背中を見ると、まるで蜘蛛の糸を四方に放ったような光がパッと広がった。血よりも濃いなにかが、彼女をこの場所に押さえつけている。

「なんで僕なんかにいろいろ話したの?」

 そう尋ねると、彼女は、あなたが東京の人だからと長い髪をかきあげながら言った。昼間は空をゆっくり見上げる人はあまりいない。しかし、夜はなぜだか星空を見上げてしまう。鳥籠の中にいる彼女は、この先どう生きるのだろう、自分を差し置いて興味があった。

 東京に帰宅した夏の終わり、テレビをつけると、水泳の高校総体がやっていた。モニターの中で必死に泳ぐ彼女の姿があった。結果は予選敗退だった。しかし、プールサイドから上がる彼女は、画面越しの僕に背中を向けて、先を急ぐように見えた。この後、彼女がどのような人生を歩んだかは知らない。

 あの頃は、どうしても1つ2つ年上の人が大きく見えた。今じゃ大したことのない年齢差であっても。そして、多くの都会ではないところに住んでいる人の羨望や憧れに触れると、自分の存在が限りなく小さく感じた。その感覚は今でもハッキリと覚えている。自分にないものを持っている、それでいて執着に似た情熱を持っている。
 乾いた土地に根づく草は、幾度となく水を得るために地中に根を伸ばす。僕は毎日水を与えられている花壇の草だろう。強さとはそういうことなんだ。

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