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[ちょっとしたエッセイ]知らなすぎた人を想う

 かつて。とかいうには少し大袈裟なのだが、今の時代から遡った時の変遷で考えると、かつてと言ってもいいくらい生活の多くが変化した。その、「かつて」の時代に、僕は文通をした経験がいくつかある。
 どれも携帯電話が普及していない時で、今よりも「手紙を認める」ことに時間を割いていた。僕は手紙を書くのが苦手なので、1通の手紙を書くのに、何枚も何枚も便箋を破っては捨てていたのを覚えている。でも、書きたい衝動は当時とても強くて、楽しい時間だった。
 文通の相手は、何人かいたのだけれど、その中で特に記憶に残っている相手がいる。というのも、当時はポケベルから携帯電話が学生の時分でも手に入るようになった黎明期でもあったので、文通相手ともポケベルやら携帯電話やらに連絡手段が変わっていった。そのためか、連絡こそは取らずとも電話番号が変わらない限り、今でもなんとなくネットでその人の情報がキャッチできてしまう。だから、文通の思い出はそこそこ、というより文通の思い出は、その後の連絡手段の変化によって上書きされてしまったというのが正しいところだろう。

 そんな中で特に覚えているのは、手紙でしかやりとりしなかった「人」で、その人は、実際に会ったことがある人でもあった。

 僕は高校2年の夏休みに、寝袋と少しの荷物と18切符を片手に、ひたすら西を目指したことがあった。特に目的があるわけでもなかった当時、夜を過ごすために降りた山陽本線のとある駅。そこで、その人と出会った。僕はバカンスのような出たち、彼女は部活の帰り道だったと思う。僕は、空腹のために、ひとまず逃げ込んだファストフード店。制服姿で、部活帰りに寄ったであろう彼女とその友だちは、店の奥の方で同じ高校生らしき男の子たちに絡まれていた。
 暇を持て余した僕は、横の席に座る。大きなザックと、地図とガイドブックをテーブルにおけば、自然と横の学生たちはこちらに注目をした。そんなきっかけで、同世代ということ、そして何より僕が東京から来たことがわかると、その後は大いなる歓迎を受けながら、街を案内してくれた。
 そんな出会いの中で、ひとりの女の子と連絡先を交換することになった。その日その場限りの出会いのはずが、そこからしばらく手紙でのやりとりとなった。

 今となっては当時の彼女の顔や声を明確に思い出すのはむずかしい。ただ、僕の手元にある手紙の束を読み返すと、なぜだかその人懐っこい性格が脳内に再生される。
 当時、彼女は水泳をやっていた。しかも、僕みたいな一般人とは程遠い世界で活躍していた。そのプレッシャーが彼女を押し潰そうとしていたタイミングだったのかもしれない。僕は、あだち充のマンガ「ラフ」を思い出しながら、手紙を読んだ。
 そして、いつも結びに「私のことばかり話してしまってごめんなさい。私でよければ話し相手?になります。手紙ってとても心があったかくなりますから」とあった。
 いつからか手紙のやりとりはなくなったわけだが、どんな経緯でなくなったのかは定かではない。でも、おおよそ、手紙のやりとりが面倒になってしまったのではないかと思う。飽きっぽい性格の自分、そして片手に携帯電話を持つ時代の黎明期だ。当然なのかもしれない。
 あれから20数年が経ち、今この手紙を読んでいると、なぜこのやりとりを続けなかったのかと後悔の念が立つ。
 だけど、そんな手紙のやりとりがなくなった今、後悔したところでもう時が経ちすぎている。自分がなんとか元気に生きているわけで、あの彼女も僕くらいの年齢になっているだろう(当然のことだ)。そして何よりも、世の中は何事もなかったようにまわっている。そんな分かりきったことを考えながら、ため息が出た。

 最近、手紙をもらったことがあるだろうか。毎日自宅のポストは見るものの、DMや役所などの封筒ばかりで、ごく個人的な人からもらう手紙はなくなった。その代替は、メールやLINEのような電子ツールに変遷したわけで、でもこれって実は、結構悲しいことなんじゃないかなと思ったりする。しかし、その悲しいことは、いつまでも僕の心のどこかでくすぶっている。なぜかというと、そんな身勝手なことを考えながら、手紙を書く機会を持たない自分がいるからだ。それでも、あの人のことを思い出すのは、どこか自分の中できれいな思い出だったからかもしれない。別に失恋をしたわけでもない、喧嘩をしたわけでもない、何より、彼女のことを知りすぎる前になくなってしまった関係だからだろう。ていねいに書かれた手紙はきっと時間がかかっている。僕自身も何度も何度も書き直しながら手紙を書いた記憶がある。手紙というのは、そういうもので、それと同じことを今の時代に置き換えることはできない。
 
 思えば、あの時からずいぶんと時が流れてしまった。そして、後悔だらけの人生の、ひとつの後悔を思い出してしまった。でもその後悔は、僕自身の生きる支えになっているのかもしれない。あの彼女の結びの言葉が、手紙の持つ力を僕に教えてくれたんだと思う。

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