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[ちょっとしたエッセイ]ボクらは小さな羊飼い

 先日、クリスマスで賑わう街中を歩いていたら、ある雑貨店の店頭で馬小屋の置き物を見つけた。すると、幼い頃い通っていた教会のことを思い出した。
 わが家は母がクリスチャンで、毎日曜は母に連れられて僕たち兄弟は、教会へ通った。とはいえ、僕自身、宗教的なものへの関心は当時からあまりなく、教会の後に立ち寄る喫茶店でのモーニングセットが目当てだった気もする。
 それでもこの季節は、アドベントためミサの後はお菓子ももらったり、同じように集まる子ども同士で遊んだり、教会の雰囲気は楽しかったことを覚えている。

 そんな子どもたちにいつもやさしい笑顔で話をしてくれるのが、この教会の神父さまだった。僕たちと同じように、お菓子を頬張り、まるで親しげに話す姿は、神父のそれではなく、ちょっと頼もしい友人のようだった。

「キリストが生まれになった時、一番はじめにそのことを知ったのは誰だかわかるかい」

 クリスマス間近のある日、こんなことを神父さまは話した。僕たちはその答えをもちろん知っていて、その後、いくつかの問答を子どもたちと繰り広げるのだが、細かな内容は忘れてしまった。そして、その会話の最後に神父さまはこう話した。


 毎日、思うでしょ。あれはうれしかったなとか、これは悲しかったなとか、友だちに嫌なことを言われて嫌だったなとか。そんな『気持ち』が、小さな羊なんだよ。
 その羊を、君も、あなたも、そしてもちろん私も心の中で飼っているんだ。その小さな羊を毎日毎日、君たちは迷子にならないようにしなくちゃいけない。迷子になったら、その羊はどこかで泣いていてかわいそうだから。
 でも、私たちは、時にどうしていいかわからなくなることがある。だから、神さまは、キリストがお生まれになったことを、いち早く羊飼いに教えたんだ。羊飼いがそんな迷いから救われるように。

 記憶を手繰るとこんな内容だったと思う。

 お菓子を食べながら、僕たちはこの話を半分真面目に、半分笑って聞いたように思う。でも、不思議なことに今でも覚えているのは、話の内容もそうだけど、神父さまの話すやさしい雰囲気がそうさせたのかもしれない。それは、まるで迷える子羊をやさしく導く羊飼いのように。

 この話をしてくれた神父さまは、その後いろいろな土地の教会を転々として、もう10年くらい前だろうか、天に召された。いろいろな場所に飾られた小さな馬小屋を見ると、この話を思い出してしまう。

 今年も光陰矢の如し。2021年ももう終わる。羊飼いが手に持つ杖は、光のある方へ導かれ、また広大な世界を遊牧するだろう。
 みなさま、よいクリスマスを!

Merry Christmas, Mr.Sorrow.

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