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[ちょっとしたエッセイ] 深夜に思い出すのはいつも

 noteで詩を書く人の作品を読んでいると、7〜8割くらいの作品が「恋」や「愛」について書かれている、もしくはそれらを想起させる言葉が散りばめられている。男女問わず、いかに「恋」や「愛」が人の心をトリコにしているかがわかる。
 それらを読んでいると、時にはくすっとしてしまったり、時にはなんだか心をくすぐられたり、時には、自分とは正反対の方法におどろいたりと、人の恋というものは奇想天外で、自分とは違う世界を見せてくれる。
 いつだって人は、人に好かれたい、人を好きでいたいという欲求が、ハイウェイを走る車のように、前へ前へと猛進し、時には晴れやかな高揚を、時には大雨のような絶望を運んでくる。
 思い出してみると、やはり自分も人を想い、それに気持ちを左右されてきた。「きた」と過去形にしてみたもののそれは違うな。過去形にしたのは“歳のせいだよ”とかっこよく言い切りたいからで、でも実際はそうもいかない。
 しかし、いくつかの恋(いや全部だな)は、終わりを迎えてもなお、心の奥にぼんやりと光をもって存在する。それが幸せな恋であっても、やぶれてしまった恋でも、どれもそう。
 例えるならば、地層のようなもので、最初の恋から、人を好きになるという層を重ねて、今に至り、それは、幾重にも積み重なっていて、たまにスコップで掘り上げるとき(たまにあるでしょ、そういう時)、たまたま掘り上げてしまった恋に思いを浸らせてしまう。そういう時は、決まって深夜の2時くらい。

“ライブハウスの脇で、地べたに座りながら、僕の肩に彼女が顔を寄せた瞬間”
“「手見せて」と言われて出したら、何も言わずそのまま繋いでくれた時”
“代々木公園の芝生で寝ながら、ふたりで空を見た時”
“二人乗りした自転車で、すごく怖がった君の声を聞いた時”
“深夜の代官山をただただ夜空を見上げながら、ふたりで歩いた時”
………………などなどまだあるな。

 別にその恋が成就しようがしまいが、思い出すのは、決まって“瞬間”だ。その恋自体に感傷するのではない、始まりから終わりの長い時間に浸るのではなく、心に焼きついたあの瞬間が、パアッと拓けて鮮明に思い出されるのである。
 そうなったが最後。家の窓を開けて、空に月が輝こうものなら、もう止まらない。ニヤけてしまったり、ため息をついてしまったり。今や、FacebookやTwitterなどSNSから、昔の知り合いや恋人、気まずい人やら懐かしい人、ふとした時に現在のその人を見つけることができる。もちろんそれがきっかけで思い出し、懐かしむことも多いのだけど、自分の脳に染みついた情景を掘り起こした時の“浸り”は、どうやってもそれらの懐かしさの比ではない。SNSで自分の思いで中の人を見つけたとて、その人の今と思い出の中のそれは、ただ比べようもなく、同一人物として扱うことはできない。別人なのだ。
 どうしたって自分の中にある完全なる無垢な心境、時の流れで色づけされた重厚感は、最高の物語と変貌している。懐かしむどころでない。何度でも読み返したい本と同じだ。
 だから深夜に思い出す「君と僕」は、いつでも最高潮で幸せなフィクションである。過去のことは、たぶんもうフィクションでいいのだ(と自分に言い聞かせる)。それ以上求めることもない。悪い方に変化することもないから。僕の場合を地層と例えたが、こう言うのもいいかもしれない。心にはパズルのピース、はじめから定められたかのような穴が空いており、そこに「恋」を当てはまるのをいつだって心は待っているのだと思う。はめるピースは現在進行形でも過去の思い出でも構わない。
 もしかしたら、人によってはそれが「愛」なのかもしれない。そして、そのどちらも持ちあわせた人もいるだろう。愛する家族、愛するペット、尊敬する人、とにかく自分が愛したすべての対象も「恋」と同じように、どこかに空いた穴にはまるための思い出かもしれない。それが悲しみであっても。
 そう考えると、やはり、人は思い出に生きていく生き物だ。過去、自分の身に起きたことは、すべて糧なのだ。
 もちろん嫌な思いでもあるだろう、でもそうやって真夜中のジュークボックスからランダムに引き出される1曲は、まさにノスタルジー。そして思い出した回数だけ、さらに地層を重ね、より栄養のある思い出に仕立てて、次の月を迎えるために生きるのである。

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