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〝UFC以前〟の総合格闘技

 1993年11月12日、米国デンバー。

 日本では当時「アルティメット」と呼ばれていた「UFC 1: The Beginning」が開催される。ボクシング、空手、相撲、サバット、キャッチレスリング、柔術……様々なバックボーンを持つ8人の格闘家が参加した、〝何でもあり〟ルールによるワンデイトーナメントが行われた。

 優勝したのは、グレイシー柔術を代表して出場したホイス・グレイシー。一回戦、準決勝、決勝戦の3試合を合計しても5分に満たない早さで、すべての相手からタップアウトを奪って戴冠した。

 なぜホイスは第一回UFCを制すことができたのか。よくなされる説明は、「多くのリアルファイト」は最終的に組み合いからの寝技の展開へといたり、グレイシー柔術はその最終局面であるグラウンドでの闘いに特化した技術体系だから」というものだ。

 しかし、日本の柔道/柔術に起源を持つグレイシー柔術はどうやって〝寝技で相手を仕留める〟技術体系へと発展したのか。この問いについては、これまで研究が尽くされてきたわけではない。

 前々回のエントリでは、「柔術研究のブレイクスルー」に触れて、これまで通説として語られてきた「前田光世-カーロス・グレイシー神話」とは異なる実像に光を当てた(「グレイシー柔術の起源とは何か」)。また、前回のエントリでは、「最初のMMA」がいつ行われたのかについて、1930年代まで時代を遡って複数の起源を紹介した(「最初の〈ヴァーリトゥード〉はいつなのか」)。

 ごく簡単に要約すれば、日本の柔道家から(おそらく間接的に)伝えられた技術を、グレイシー一族は本家である日本の講道館から切断された形で習得・伝承した(中核をなした人物にカーロス、エリオ、ジョージが挙げられる)。グレイシーは自らのアカデミー(道場)を持ち、急速に世界で普及する講道館柔道を横目に、自らの〝柔術〟の技術的優位性を示すべく、積極的に他流試合へと打って出た。カポエイラやキャッチレスリング(ルタ・リーブレ)、ボクシングといった異なる技術体系を持つ格闘家との試合は必然的に「ルール上、可能とされる攻撃」が増加していき、そのうちのいくつかは「最初の総合格闘技」と呼びうる〝ヴァーリトゥード(ポルトガル語で「何でもあり」の意)〟として闘われた。

 ここまでが、1910年代末から1930年代にかけて起こったことだ。だが、最初期の総合格闘技(ヴァーリトゥード)から1993年の「UFC.1」にいたるまでには、半世紀を超える時の懸隔がある。今回のエントリでは、その空白にあたる歴史やいくつかの戦いについて記述したいと思う(幸いにもいくつかの試合映像をYouTube上で確認できる。制度化されたMMAとは異なる原始の総合格闘技は現在の視点から見ても興味深いはずだ)。

グレイシー柔術はルタ・リーブレの「サブジャンル」だった?

「総合格闘技」の前史を振り返るとき、見逃せないのはキャッチレスリング(ルタ・リーブレ)の存在感だ。ブラジルのリオデジャネイロとサンパウロはヴァーリトゥードの揺籃となった土地だが、グレイシー門下による他流試合の多くは「ルタ・リーブレ」の選手が相手となった。古くからの格闘技ファンであれば、「ルタ・リーブレ」と聞くと、初期UFCで活躍したマルコ・ファスや、修斗など日本のリングで多く戦ったアレッシャンドリ・フランカ・ノゲイラ(ペケーニョ)を思い出す向きもいるはずだ。現在の感覚からすると、「ルタ・リーブレ」の存在感はグレイシー一族のそれと比較すれば薄く、マイナーなものに思えるかもしれない。しかし、その〝遠近法〟はUFCが開催された1993年以後のパラダイムといっていい。

 ルタ・リーブレは、ギ(柔術着)を着用しないブラジリアン柔術とも表現される技術体系だ。ギを着用せず、打撃を使わずに相手と組み、投げて、サブミッション(投げ・関節技)を極める。キャッチレスリングとも非常に近しいが、異なる点はフォール(両肩をマットにつけて相手を制する)による勝ちが認められていないところだ。競技レスリングではないキャッチレスリング(catch as catch can)の歴史は長く、近代以降、大衆が劇場で娯楽を愉しむようになった19世紀からそのような見世物が行われていたと考えられる。このキャッチレスリングは現代のプロレスの源流であり、見世物興行として行われていたこともあって八百長(フィクスド・ファイト)もまた珍しいものではなかった。

 ブラジルでもそのようなキャッチレスリング≒ルタ・リーブレの戦い/見世物は「グレイシー柔術」の試合よりも古くから、そして数多く行われていた。グレイシー柔術はリオとサンパウロという限定的な土地で普及し、かつカーロスやエリオは社会的な上位階層や権威に近い人々を相手に指導していたため、その競技人口は決して多いものではなかった。高価な着を必要としないルタ・リーブレはその点でも柔術よりも敷居が低かったといえる。20世紀の大半を通じて、基本的にグレイシー柔術はルタ・リーブレよりも「マイナー」な存在であり、柔術家たちはルタ・リーブレの大会・興行に参加することで共存していた*1。

 たとえば1934年には、グレイシー柔術の第一世代で最も強かったとされるジョージ・グレイシーが37名の選手が参加したルタ・リーブレ(キャッチレスリング)のシリーズ興行に〝シーズン〟参加している*2。前回のエントリでも触れたが、最初のヴァーリトゥードの一つに数えられるジョージ・グレイシー対チコ・ソレダージ戦が「1933年」に行われたことを踏まえると、この時期のルタ・リーブレと総称される試合が真剣勝負/フィクスドファイトの曖昧なあわいにあったと考えるのは難しいことではない。事実、後年にジョージ・グレイシーはあるプロモーターの元で行った試合はすべて八百長であったことを打ち明けている。*3。

 グレイシー一族やその門下生たちが行ったルタ・リーブレ選手との戦いのうち、どれほどが真剣勝負だったのかを同定することは難しい。ただ、彼らの名誉のために書き添えておけば、エリオ・グレイシーは八百長を戦った門下生を破門にするなど、リアルファイトに強いこだわりを示し続け、1951年に行われた日本の柔道家たち(木村政彦、加藤幸夫)との他流試合は真剣勝負とみて間違いない。

世界初のMMAテレビ放送?

 グレイシー柔術はルタ・リーブレ(キャッチレスリング)のサブジャンルだったと書いたが、例外的だった時期が1950年代だ。カーロスやエリオら、グレイシー一族は多くの他流試合を戦い、なかでも不世出の柔道家・木村政彦とエリオの一戦は彼らのブラジル国内での存在感を高めた。この一戦はスタジアムで行われ、当時の副大統領が観戦するなど社会的に大きく注目された。その後、グレイシー一族は自らルタ・リーブレの選手などを交えてトーナメント大会を開くなど、〝最大のライバル〟ルタ・リーブレとの対立関係が続く。

 この時期に目を引くのが、リオデジャネイロのテレビ放送局「TV Continental」が「リングの英雄たち(Herōis do Ringue)」や「ヴァーリトゥード on TV(Vale-Tudo na TV)」という格闘技番組を1959年から放送していることである*4。「リングの英雄たち」は毎週月曜日の午後8時半から9時半にかけて放送されており、ボクシング、柔道、ルタ・リーブレの試合が中継されたという*5。放送は数年に渡って続き、最初の2年ほどはグレイシーアカデミーからも多くの柔術家が参加している。柔術の試合や打撃なしのキャッチレスリングも行われたが、特に注目したいのが打撃の許された試合が戦われていることだ。

 ここにも、真剣勝負/フィクスドファイトを断定できない難しさがある。時期としてオープンフィンガーグローブは開発されておらず、素手による総合格闘技がテレビで放送されていたとしたら、それは「UFC.1」に似た凄惨な試合展開になることは間違いない。事実としては、「リングの英雄たち」は放送開始から2年が経つと、ヴァーリトゥードは「残酷すぎる」という理由で、ルールセットが変更されている。「マウント(馬乗り)状態からのパンチ」「クリンチ状態以外(離れた距離から)の打撃攻撃の禁止」が課せられ、やがて番組は2年ほどで終了した*6。だが、それほど競技人口もいないだろう1959年のリオデジャネイロで、テレビ中継のために毎週のように真剣勝負の総合格闘技マッチを何試合も組むことは現実的だろうか。当時そこで放映されていたのは、打撃も許された筋書の決まったキャッチレスリング≒プロレスだった可能性も捨てきれない。

プロレスブームとグレイシー柔術の〝沈黙〟

「リングの英雄たち」が数年で終了すると、やがて1960年代後半にはテレビでのプロレス放送「テレキャッチ(Telecatch)」がブラジルで人気を博すようになり、グレイシー柔術やヴァーリトゥードの存在感は相対的に低くなっていく。「テレキャッチ」は現在のプロレスとほぼ同じもので、真剣勝負っぽさに重点は置かずにエンターテインメント性を重視した興行だった。

 だが、1969年にこの「テレキャッチ」でさえも子どもが視聴するには「暴力的すぎる」という理由で午後10時よりも前にテレビで放送することが禁じられてしまう*7。この事実からも当時のブラジル社会のリングスポーツに対する風向きの強さが窺い知ることができるし、よりバイオレントな総合格闘技(ヴァーリトゥード)などの他流試合で強さを証明しようとしてきたグレイシー一族にとって、1970~1980年代は雌伏の時期だったといえるだろう。

空手 vs. グレイシー柔術(1975)

 一部の文献では、1970~1980年代ではヴァーリトゥードの興行はブラジルで禁じられていたとするものもある*8。だが、社会の規制をかいくぐるようにしてグレイシー柔術が戦った、いくつかの異種格闘技戦が映像とともに残っている。

 その一つが、1975年に行われた空手家と柔術家による5対5の対抗戦だ。1967年に公開された米映画「カラテキラーズ(The Karate Killers)」がブラジルでも人気を博し、空手道場への入門者が急増する。ヴァーリトゥードなど、自分たちの技術優位を証明する場を奪われていたエリオ・グレイシーはこの空手ブームに目をつけ、5対5の対抗戦を申し込む。

 試合の映像を見れば分かるが、双方ともに着を着用しつつ、寝技の状態でも打撃が認められている。空手家はじりじりと距離を詰められて、テイクダウンを許し、マウント状態でパウンドを浴びた後に締めや関節技でタップアウトを許している。まさに18年後に第一回UFCで目撃することになる光景とまったく同じ展開がすでに確認できる。

 柔術サイドからはホリオン・グレイシー、ホーウズ・グレイシー、ヘウソン・グレイシー、タルシジオ・モレノ、セルジオが参加した。後にUFCの仕掛け人となり、PRIDEのリングでホイスのセコンドとして現れるホリオンの戦う姿が見れるのは貴重だと思う。

 対抗戦は柔術側がすべての試合で3分以内に一本勝ちをおさめる結果となり、空手側は全敗に終わっている。この段階で、グレイシー柔術はすでに打撃の許されたルールセットにおける戦い方を洗練させつつあったと見ていい。

ヒクソン・グレイシー vs. レイ・ズールー(1983)

 エリオ・グレイシーの三男にあたり、後に「PRIDE.1」で高田延彦と戦うことになるヒクソン・グレイシーは、すでに1980年代にいくつかの総合格闘技マッチを戦っている。ヒクソンは当時、制度化されつつあったブラジリアン柔術の大会でも多く優勝を果たしており、当時のグレイシー一族で最強と目されていた存在だ。

 相手のレイ・ズールー(Casemiro "Rei Zulu" Martins )は格闘技経験は定かでなく、〝百戦以上無敗〟というプロモーションから耳目を集めた謎の選手。

 映像からも明らかなように、当時のヒクソンはおよそ79~80キロほどだったのに対して、相手のズールーは約92キロと体格差がある。体躯を活かしてズールーは寝技で上を取るが、攻め手がなく、ポジションを入れ替えられると、最後にはバックマウントからのチョークで試合に敗れている。

 ヒクソンはガードポジションで下になっている際にはパウンドを警戒しているのか、基本的にクラッチを組んで相手と密着している。また、スタンドでのクリンチ状態では膝蹴りを放つなど、打撃も想定した練習を行っているような動きも確認でき、ヒクソンにとって総合格闘技は柔術の一つの実践の場だったのかもしれない。

 ヒクソンとズールーは翌年、ボクシングの世界戦の前座マッチとして大観衆の前で再戦を行っている(ヒクソンのチョークによる一本勝ち)。

ルタ・リーブレ vs. グレイシー柔術(1991)

 かつてはルタ・リーブレ(キャッチレスリング)のサブジャンルだったグレイシー柔術だが、この頃になるとその存在感は拮抗状態にあり、リオデジャネイロのビーチなどで双方の選手たちがストリートファイトを行うようなありさまだった。

 UFCが誕生する2年前、打撃や頭突きなどの規制をかいくぐり、「柔術対ルタ・リーブレ」の3対3の対抗戦が行われた。柔術側は代表としてヴァリッジ・イズマイウ、ムリーロ・ブスタマンチ、ファビオ・グルジェルという3人の黒帯が出場した(イズマイウとブスタマンチは後年、PRIDEでも戦っているのでその名前を記憶している人もいるだろう)。

 驚くのは、この対抗戦が第一回UFCより先に行われたことが信じられないほど、グラップリングの水準が高いことだ。互いに組技系の技術体系ということももちろん理由の一つだが、しかし、クローズドガードやオープンガードでの攻防などは、最初期のUFCとは雲泥の差があり、いかにブラジルが総合格闘技(ヴァーリトゥード)において歴史の蓄積で先行していたかが分かる映像になっている。

結論

 前回のエントリでは最初の総合格闘技と目される、1930年代のいくつかの試合について書いた。初期のヴァーリトゥードの歴史を振り返ったとき、つねに付き纏うのがそれが「リアルファイトだったのか、そうでなかったのか」という問いだ。前述の通り、キャッチレスリング(ルタ・リーブレ)の存在感は大きく、キャッチの大会で行われた柔術家による試合が八百長(フィクスドファイト)でなかったことを完全に証明することは難しい。

 逆にいえば、ブラジルにおけるキャッチレスリング(ルタ・リーブレ)の試合はリアルファイト/フィクスドファイトのあわいにある戦いだったとも言えるのかもしれない。今回の記事では触れられなかったが、ジョージ・グレイシーの弟子筋であり、1960年代にブラジルのキャッチレスリングやヴァーリトゥードの試合に出場したイワン・ゴメスはその両義性を象徴するファイターだ。ゴメスは1970年代半ばに新日本プロレスに参戦すると、プロレスのマットにもかかわらず、ウィリアム・ルスカやストロング小林とリアルファイト(「セメント」)と思しき戦いを繰り広げている。

 そのような真贋を見極めることの難しいシーンのなか、1960年代以降にはエリオやジョージに続く「第2世代」としてカーウソン・グレイシーとホーウズ・グレイシーが台頭してくることになる。カーウソンはキャッチレスリングやヴァーリトゥードで他のグレイシーの追随を許さない活躍を見せ、自らのアカデミーで〝何でもあり〟の戦いで勝てる柔術家を育て上げていく(そのルーツはやがて「ブラジリアン・トップチーム」に結実する)。一方、同じく1960年代には初めてブラジリアン柔術の連盟が結成され、〝不完全な柔道〟に過ぎなかったグレイシー柔術はその独自の進化を遂げる端緒につくことになる。

 1970~1980年代はグレイシー柔術にとって〝沈黙〟の時期とさきに書いたが、それは同時に1990年代にブラジリアン柔術が格闘界を席巻するための土台が形成されつつあった時代でもあったのだ。

(つづく)


1 Roberto Pedreira, Choque: The Untold Story of Jiu-Jitsu in Brazil, 1856-1949, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2014, kindle No.5409
2 Pedreira, Choque, kindle No.5471
3 Pedreira, Choque, kindle No.8364
4 Luiz Otavio Laydner, With the Back on the Ground:From the Early Japanese in America to MMA – How Brazilian Jiu-Jitsu Developed, Independently Published, 2014, kindle No.4193
5 Pedreira, Choque, kindle No.4676
6 Pedreira, Choque, kindle No.5032
7 Roberto Pedreira, Choque: The Untold Story of Jiu-Jitsu in Brazil Volume 3, 1961-1999, CreateSpace Independent Publishing Platform, 2015, kindle No.2576
8 Robert Drysdale, The Rise and Evolution of Brazilian Jiu-Jitsu: From Vale-Tudo, to Carlson Gracie, to its Democratization, Independently published, 2023, 37P