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「おはようございます」に秘められた価値のお話し。

某旧国鉄道企業に勤めていた時、2ヶ月間の新入社員研修で徹底して教育を受けたのが、「あいさつ」だった。

生半可な教育ではなく、わざわざあいさつのプロを呼んで指導を受ける。講師曰く、上手いあいさつとは、状況に応じて目口ほっぺの表情筋、声量やトーンを変える技術を駆使できたものを言うらしい。

「あいさつは先手必勝で行け!先手を打たれたら声量で負かせ!!終始、笑顔を絶やすなあ!!!」

東大、京大、慶應、早稲田、他有名大学を卒業した超エリート集団がヒィヒィ言いながら何日にもわたってあいさつを学ぶ。

中学時代初めて部活に入った時、先輩や先生へのあいさつ練習をさせられたのを思い出した。当時は、「25歳にもなってあいさつの練習か(笑)」と同期と話していた。

研修が終わった後は各部署や現場に配属されるとこになるのだが、職場もとても明るく元気だった。あいさつが小さかったり、元気がないと、上司に本気で心配される。

特に鉄道企業の現場では、1つの小さなミスが大きな事故につながる可能性が大きいこともあり、社員の健康状態や社員間のコミュニケーションの向上にはかなり気を遣ってる。

話は少し逸れるが、どこかのサイトで『西成のおっちゃん』という記事を読んだことがある。西成区とは、今はかなり改善されているようだが、昔は暴動や違法露店、不法投棄など多くの問題を抱えるちょっぴり危険な地域であった。そんな地域に住むおっちゃんのお話だ。

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西成の路地に住む家の無いおっちゃんは、50円を50円で売っていた。よそから来た少年が尋ねる。「おっちゃん、こんにちはー!これ、50円を50円で売って何してるん、何も価値生まれんやん!」おっちゃんが答える。「よぅ少年、ちゃーんと価値生まれてるで、ほらこうやって俺とお前、会話してるやん。これって、価値やろ?」
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上記は記事の要約であるが、読んだ時は本当に衝撃的だった。あぁそうか、人が2人集い、会話するだけでそれがもう既に「価値」なのかと。GDPには計上されないが、確かにそれはれっきとした価値だと思う。

脱線したので話を戻す。入社した鉄道企業もあいさつで無数の価値を生んでいたのかと思うと、新人に初期段階であいさつの文化を浸透させていたことにも納得できる。

訳あって、1年半ちょっとでこの会社を退職しまうのだが、転職して驚いたことがある。今の会社はあいさつを全くしない。前職での教育が体に染み付いてるせいもあり、出社時と退社時に大声であいさつするが、反応がない。というより、あいさつすると皆んな何事かと驚く。

これは自分が恥ずかしがり屋な性格だからかも知れないが、あいさつの文化を持たない今の会社はヨコやタテの繋がりを作るのがとても難しいように感じる。

出社して退社するまで、仕事以外の話をする人など滅多に見ない。昼休みさえ、みんな基本的には一人でご飯を食べ、余った時間は寝てるかYouTubeを見ている。別に悪いことでもないし、咎めることでもないが、少々さみしく感じてしまう。

そんな中で自分ができることは、やっぱり大声であいさつすることぐらいだ。あいさつの価値を知ってしまっているから機会損失を生みたくない。(本当はあいさつキャンペーンみたいな取組みをドンと打ちたいが…。)

そして最近、この大声あいさつ活動に対して、ちゃんと目を見てあいさつを返してくれる人がポツポツ現れ始めた。この何気ないが、確かな変化が正直とても嬉しい。西成のおっちゃんが言っていた価値が芽を出しているような気がする。

あいさつをした者にとって、相手から返答がくることは、これからの旅を楽しみにする旅行者が、空港の入場ゲートを通るのに似ていると思う。会話は旅だ。

誰が自分の人生を大きく動かす人になるかなんて分からない。あいさつで人間関係を築き、信頼関係を育むことで、人生が楽しく豊かになる可能性は無限大である。

あいさつをすることで人生が絶対に豊かになるという保証はないが、あいさつをすることによって、豊かな人生を歩むキッカケを得る可能性は大いにある。そんな大きな力を持っているのがあいさつなのだと思う。


ここまでは、あいさつが秘める可能性についてお伝えしてきたが、それに加えてもう一つ、あいさつの大きな力を紹介したい。

あいさつについて力説しているが、正直、大学時代はあいさつに対してそれほど強い意識を持っていなかった。どちらかと言うと、あいさつに対しては受け身側だったし、されたら返す程度。いま思い返すと恥ずかしい。

エーリッヒフロムの『愛するということ』という本の中に、「愛するとは与えること」だと書いてある。この言葉に出会い、フロムの言葉を実践したいと思うようになった。愛すること、与えることの実践を。

これは、上記した新入社員研修で感じたことであるが、あいさつは最も簡単に誰もができる「与える行為」なのかも知れない。「おはよう」「こんにちは」「おつかれさま」、声を投げかけられた側は無意識に、しかし確かに、何かを受け取っている。

このギブに対して、テイクするかどうかは受取人次第ではあるが、この相手から「愛を受け取った」という認識を持てるか否かでは大きな違いだと思う。
もし、この認識を持てるようになれば、あいさつは自己及び相互の「愛を育むキッカケ」となり得るとも言える。

実体験での話なのでエビデンスはないが、あいさつをするとなぜか心が温かくなる。一説によると、与えるという行為は、自分自身が持つ許容力や包容力などさまざまな能力に改めて気付く機会になると共に、受け取る相手に対しても感謝の思いが沸くようになるという。とても謙虚な考え方である。

この記事をここまで読んでくれた読者の方にはぜひ、明日コンビニに入った際、店員さんの「いらっしゃいませ」に対して、会釈してみてほしい。(できれば、こんにちは、と。)

きっと心に暖かい気持ちが生まれるはず。

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