見出し画像

赤信号を渡れない

プシュー。きっとそんな音を立てながらドアが閉まり、その電車は北越谷へと向かった。イヤホンをしていたので正確にはそんな音が鳴っていたのかは不明なのだが。

ああ、また目の前で電車が行ってしまった。

もうこれで何度目だろう。あまりによくある事なので「もうこれで何度目だろう」と思うことすら久しぶりだった。

歩くスピードが遅いから、終業間際に電話がかかってきたから、エレベーターがなかなか来なかったから、電車が目の前で行ってしまうのにはいろいろな理由がある。
それでも今日に限ってはそれ以上に明白な理由があった。

赤信号を渡れなかったから。

これだけ見ると普段は赤信号も渡ってるモラルがイカれてる人間に見える。

けれど心当たりがないだろうか、「目の前で点滅中の青信号が赤に変わってしまう」ことが。渡る予定の横断歩道が短ければ短いほど「これくらいならぱっと渡っちゃえばいいのでは…」と心の中の悪魔の囁き声が大きくなることが。

それでも僕は渡れないのだ。歩行者用の信号が赤になった瞬間に爆走する車なんてほぼいないのだから、「生死」の観点や物理的に横断可能かどうかで見れば渡れるようなシチュエーション。そんなシチュエーションでもキチンと理性が働いて「赤信号は渡っていけない」という判断が重い壁を悪魔を押し潰す。

正直そんなの当たり前だ。これを褒めてくれと言えば、不良が更生して当たり前のことができるようになっのを見てモヤモヤするのと同じ気持ちになるだろう。

けれどたまに思うことがある。「きっとこういう時に赤信号をぱっと渡れちゃうような精神を持ってる方が世渡り上手なんだろう」と。

真面目な人は報われる、お天道様は見ている。社会に出ていない僕からしたらそれは「真面目」が善であってほしい世界が縋りたい理想論に過ぎないと思ってしまう。

真面目なことは何一つ悪くない。僕だって自分のある種の真面目さに誇りはある。けれど真面目は度を過ぎると「生きるのがヘタ」になってしまうのではないだろうか。そうなった時にはきっと「真面目すぎるよw」と言われる。真面目な人は報われるのでは?お天道様は見ているのでは?と悲しさすら覚える。
しかし正直分かっている、それは真面目さが報われていないのではなく息抜きが下手なのだと。ある程度の真面目さは報われる、その上で人生には端折っていい部分があるはずなのだ。
それを端折れるのはきっと「短い横断歩道を赤信号でぱっと渡ってしまう」ような精神と似ているのだろう。

法律的に見たり、何か問題があった時に第三者から見て正しいのは断然赤信号を渡らない人間だ。それでもたまにそういう渡れる精神性に憧れる時がある。

それでも、きっとまた赤信号を渡れずに目の前で電車が行ってしまうのだろう。
そして次の電車を待っている間に思うのだ、赤信号を渡れる精神を持てたらなあと。

具体的な内容が「赤信号を渡る」というだけで、法律に反することを助長する意図は無い。
ただただ「上手いこと息を抜きながら生きられる人間になりたいなあ」と思っただけなのだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?