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中村とうよう論 ―音楽評論と「商業主義」の関係の変化―②フォークとの出会い

前回-中村とうよう論 ―音楽評論と「商業主義」の関係の変化―①

○上京、評論家デビュー
 1956年、京都大学を卒業した中村は、日本信託銀行に就職が決まり、上京した。銀行員時代の中村は、レコード収集とレコードコンサートの企画に力をいれていたという。
 1957年、この銀行員時代に、中村は商業誌にデビューすることとなった。57年5月号の『ミュージック・ライフ』、タイトルは「新しい音楽カリプソのすべて」であった。当時、浜村美智子が、ハリー・ベラフォンテの「バナナ・ボート」をカバーしヒットさせ、カリプソというトリニダートの音楽に注目が集まっていたのである。中村は、中南米音楽研究会で得た知識をもとに、『ミュージック・ライフ』編集部に自ら売り込みをかけて、掲載が決まったらしい。


 入社3年目の1959年から、中村は労働組合の役員も務めるようになった。しかし、安保闘争のあった1960年、銀行の経営者側が反撃に出て、暴力団まがいの警備員を雇うなどしたことによって、中村の所属した組合は「完敗」を喫した。これがきっかけとなり、中村は銀行を辞めることとなった。銀行を辞職した後の中村は、苦しい生活が続き、ガリ切りのバイトやレコードを手放すなどして食い繋いでいたという。このころから、中南米音楽研究会の先輩であり、ラテンやシャンソンの評論家として活躍した永田文夫の助けもあり、『プレイバック』、『スイングジャーナル』などで連載をもつようになる。『スイングジャーナル』でのタイトルは、「ポピュラー音楽〜ジャズ・ファンのためのポピュラー・ミュージック・ガイド」であり、ジャズの記事は書かせてもらえなかった。ハリー・ベラフォンテと黒人霊歌の専門家と思われていたらしく、あまり仕事の依頼はこなかったようである。

 1962年には、初めての著書である『ラテン音楽入門』(音楽之友社)が出版される。中村は未だ、ラテン音楽については、レコードの解説や専門誌での掲載などの実績がほとんどなく、この状態で入門書を書くのは、当時としても異例であったようだ。音楽之友社への原稿持ち込みが成功して出版にこぎつけたらしい。この本は、1年ほどで再版されており、ある程度売れたらしい。
 これがきっかけとなり、音楽之友社の雑誌『音楽之友社』、『レコード芸術』『ポップス』などで記事を書くようになる。さらに、NHKのラジオ第2放送の「音楽鑑賞」という番組に出演するなど、活動の幅を広め、評論家として認められるようになっていった。

○フォーク・ソングブームの始まり

 中村は、1963年ごろからフォーク・ソングを日本に積極的に紹介するようになる。日本でのフォーク・ソングブームの火付け役の1人であったといえるだろう。

 キング・レコードは63年10月新譜の『ジョーン・バエズ』を第一弾に「フォーク・ソング」シリーズが発売された。回想によると、このシリーズの発売は、中村が強く働きかけたもので、このレコードの解説や、マスコミ・特約店向けの説明資料のガリ切などを担当したらしい。これ以降、『ポップス』『音楽之友』などでフォーク特集が組まれるが、中村はほとんど必ずと言ってよいほど登場している。


 63年10月号の雑誌『ポップス』には「フォーク・ソングの楽しみ」という座談会記事が掲載されている。そこで中村は、「フォーク・ソングとか、民謡、なんていうと大変バクゼンとしているんですが、ブームを起こしているのは大体アメリカの民謡という風に限定して考えていいと思います。アメリカ民謡を歌う歌手とかボーカル・グループがいろいろあって、大変に人気が出てきているわけですね。」(86p)と紹介している。そして上述したキング・レコードのレコードの宣伝も行っている。

 さらに、63年10月には、「アメリカ最高の民謡歌手」という触れ込みで、アメリカの民謡運動の中心人物であったピート・シーガーが来日し、11月には日本各地で公演を行った。この公演プログラムに紹介文を書いたのも中村であった。

 『ポップス』は、ピート・シーガー来日の3カ月後、64年2月号で「特集 ブームを呼ぶかフォーク・ソング」と特集記事を組んでいる。ここでも中村は、「海の向こうのフォーク・ブーム」と題して記事を書いている。

 「「フォーク・ソング」とか「民謡」とかの言葉の中には、本当に山奥の古老たちが伝えている伝統音楽も含まれているし、商業的なよそおいをこらし、すっかりレコード歌謡にされてしまったものもふくまれている。(略)
実例を挙げると「トム・ドゥーリー」という歌は昔からアパラチアの山中に伝わっていた民謡であり、そのままの姿では特殊な研究家や好事家を喜ばせるだけにとどまるが、それを現代の感覚で“カッコよく”アレンジしたキングストン・トリオのレコードは大ヒットになった(略)
 ポップ・フォーク側の商業的成功とあわせて、片方でボブ・ディランのように人間的な誠意にあふれる自分の新民謡ばかり歌い、しかも年に似ぬ渋い歌い方で大いに賞讃を浴びている人もいることを特筆しておく必要がある(略)彼の代表的な反戦歌「風に吹かれて」は日本でもかなり評判になってきた。シーガーにしてもディランにしても、アメリカの良心の端的な代弁者であるといっていいだろう」(21-23p)

 ここで中村は、「商業的」成功に対して明確にネガティブな発言をしているわけではない。しかし、「商業的なよそおいをこらし、すっかりレコード歌謡にされてしまったもの」や「ポップ・フォーク側の商業的成功とあわせて、片方でボブ・ディランのように人間的な誠意にあふれる…」という言い回しからは、「商業主義」を低いものとし、ディランやシーガーをそれらとは異なった「良心」をもっている人物であると称揚するレトリックが透けている。

 これ以降、中村は68年ごろまで続く日本のフォーク・ソングブームと深くかかわっていく。この時期の彼の論考は、「商業主義」という概念に対して単純に批判するわけにもいかず、かといって是とするわけにもいかないという、二律背反的状態に置かれるようになる。そこでは、①で紹介した「牛の歌と現代文明」のようなナイーブなマス・コミ批判は、もはや不可能である。なぜならフォーク・ソング自体がその商業主義的側面を持っていたこと、さらに中村自身もレコードの企画監修も行うなど、マス・コミ側の人間になりつつあったためだ。

次回は、フォーク・ソングブームの展開と中村の関わりの変化について考察する。

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