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中村とうよう論 音楽と「商業主義」の関係の変化 ①学生時代まで

 音楽評論家、編集者であった中村とうようの名前は、90年代までにポピュラー系の音楽雑誌を読んでいた方ならご存じだろう。この論考は、中村とうようの生涯から、かれの音楽観と「商業主義」の関係について考察するものである。音楽だけではなく政治に対しても率直な物言いで、多くの文章を残した人物であり、当時の日本の左派知識人の変化と音楽の関わりを考えるのにふさわしいと考えている。

 中村の生涯に関する記述は大部分を、田中勝則『中村とうよう 音楽評論家の時代』二見書房、2017年、に依拠している。


・幼少期から学生時代
 中村とうよう(本名 中村東洋)は1932年7月17日に、京都府峰山町にある洋服の仕立て屋「テーラー中村」の長男として生まれた。
 『中村とうようアンソロジー』(ミュージックマガジン、2011年)によると、幼少期のレコード体験として、春風やなぎ「秋の風」、本居みどり子「4丁目の犬」、上原敏「流転」が挙げられている。しかし、音楽に囲まれた幼少期というわけではなかったようだ。


 宮津中学校に入学する1945年(昭和20年)に、終戦をむかえる。
 1952年には、京都大学に入学。大学の生活協同組合の謄写版印刷、いわゆるガリ版印刷のバイトに精を出していたという。大学時代には、ラジオでジャズやシャンソン、ラテンなどを聞き始める。当時最も愛聴したレコードが、デューク・エリントンの「黒と茶の幻想曲Black and Tan Fantasy」であったという。


 さらに大学時代には、中南米音楽研究会に所属した。
 この中南米音楽研究会は、1940年(昭和15年)に、加藤正彦と、高橋忠雄によってはじめられた。高橋忠雄(1911~81)は、日本におけるラテン音楽の評論の草分けともいえる人物である。この会の活動が本格化したのは、高橋忠雄による解説で、1949年(昭和29年)にNHKラジオで「ポルテニア音楽の時間」という番組が始まったときであった。そして1952年(昭和27年)からは、機関紙『中南米音楽』を発行している。(これは1983年まで刊行されている)
 中村はこの会の月例会(レコード・コンサート)に出席しており、会報に原稿も書いている。また、この会では、フォルクローレの巨匠アタアウルパ・ユパンキのレコードと出会い、衝撃を受けたことを回想している。


 「ポピュラー音楽の中でも高度の芸術性をもっているエリントンやユパンキまで駆け上っていったために、こないだまで熱中していたヒット・ソングをバカにするようになっていた。ラテン音楽の中でもマンボだのルンバだのというキューバ音楽の系統は下品で安っぽいように思えて、初めは無視していた。そんなぼくに、一見いやしくて安っぽいようにみえる音楽にこそ深い味わいがあることを教えてくれたのが、永田さんたち中南米音楽京都支部の人たちだった。」
「ぼくだけの音楽史2」『Guts』8(14)、1976年、p67~69(原本未確認、田中p81より引用)

 中南米音楽研究会の活動を通して、中村は「いやしくて安っぽいようにみえる音楽」にも独自の価値があることを見出していく。今ではそれほど珍しくもない音楽に対するこの価値観も、1950年代においては先駆的であったといってよいだろう。教育などの領域では、軽音楽の与える害やその俗悪さが大真面目に議論されていた時代である。
 しかし、当然のことではあるが、すべての「いやしくて安っぽいようにみえる音楽」に価値を見出していたわけではない。次に中南米音楽研究会の会誌に書かれた初期の論考「牛の歌と現代文明」から引用する。

 「民俗音楽といわれるようなものはすべて演奏者と聴衆が未分化の状態にあり、素朴な生活感情や汚れぬ人間の魂の喜びや悲しみを一緒に味わいあっているならば、芸術の本来の姿を保っているものといえるでしょう。所が、音楽がマス・コミに基礎をおくようになると、もはや、演奏者と鑑賞者の相互浸透はありえません。寧ろ大衆の好みの流行さえも、企業者(レコード会社や放送屋)によって作り出される状態で、ここには本来の芸術の姿はありません。」
「牛の歌と現代文明」『フォークからロックへ』主婦と生活社、1971(田中、76pより引用)

 「素朴な生活感情や汚れぬ人間の魂の喜びや悲しみ」を重視するのに対して、「マス・コミ」に作り出される音楽は、「本来の芸術」ではないと批判している。中村の評論において、この「マス・コミ」に対する批判というテーマは1970年代ごろまでは一貫して表れているように思われる。しかし、このような「マス・コミ」に対する批判は、当時の知識人においてそれほど珍しいものではない。
 80年代以降の変化がこの論考のテーマでもあるが、それについては次回以降述べる。


 中村は、学生時代にゴスペルとも出会ったことの衝撃ものちに回顧している。ヴォーグ盤25センチLP『ニグロ・スピリチュアルズ』について何度も語っているという。収録されていたのはThe Sensational Nightingals、 Original Five Blind Boys、 Bells of Joyという3つのグループの曲であった。

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(画像は https://pei-disc.blog.ss-blog.jp/2010-04-05 より引用)

 このように学生時代の中村の音楽生活は、ラテンとジャズ・黒人音楽を中心であった。
次回は、評論家デビューと、フォークとの関係について論を進める。


中村とうようの写真は以下より引用している。

https://collections.musabi.ac.jp/nakamura_toyo/entry/about/


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