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ちいさな存在

 真っ黒な空から、白い粒が無数にひらひらと舞い落ちる。頬に当たると冷たく痺れ、じわっと解けて柔らかくなり、ふわりと温かくなる。それが僕の最初の記憶。ほとんど何も記憶することができなかった頃。それゆえに、起きていることや目の前の人について、何も理解できなかった頃。たくさんの言葉を知らず、考えることも知らず、それゆえに完全だった頃の記憶。
「もうすぐじいちゃんのバスが来るからな」
 頭のすぐ上から語りかける声が聴こえる。僕は初老の女性の服の胸元に入れられて、頭だけひょっこり外に出し、暗闇から落ちてくる白い粒を眺めていた。ここからは彼女の顔は見えない。僕に見えるのは真っ暗な世界、一列だけ街頭がささやかに光を落としている。その光の一つの真下で世界を見ている。全てが雪に覆われている。凍りつくような寒さに息をするたびに、白い靄が生まれては流れ去る。記憶もなく比較もできない僕にとって、世界はただそうだった。それが世界で、それ以外の世界はなかった。ただ世界は良かった。じいちゃんというのがなんなのかは分からなかった。ただ、好きなものだということを感じていた。僕を胸に仕舞い込んで夜の雪道に立っているのは祖母であったけれど、その頃の僕にはそれも分からなかった。いや、それが誰であったかは関係なかった。その瞬間のその世界にはその人しかいないのだから。ただ、祖母の胸元はたまらなく温かかった。声の響きや、僕を抱える手は限りなく優しかった。そこには全てがあった。心の底から幸せで、その瞬間、幸せ以外の感覚は知らなかった。愛とは何かを知らずに、ただ愛されていることを知っていた。いや、知らないからこそ、完全に愛することも、愛されることも出来た。考えることが出来ないからこそ、世界を感じ続けることが出来た。それが僕の最初の記憶。

 小学生になると、僕はよく森の中にいた。草木、虫たちは無限に面白く、僕は夢中になって探し、追いかけ、観察した。そうして遊び疲れて、川辺に座り水の流れるのを眺めていると、時々不思議な感覚に陥った。全ての目に見えるもの、聴こえるもの、香りや肌に触れるものを、どこに意識を向ける訳でもなく同時に感じていると、ふわっと体が軽くなり、胸が締め付けられながら無限に拡大していくような感覚になった。心が溶けて、自分という枠を忘れ、世界との境界がなくなり、全てを美しく感じられた。無数の木の葉のざわめきも、雲の緩やかな動きも、鳥の囀りも、虫たちの歩みも旋回も、川のせせらぎも、頬を撫でる風も、全てを同時に感じながら、全てが一つだった。世界は良かった。

 僕は祖母が大好きだった。けれど、徐々に自分から近寄ることが出来なくなってきていた。無邪気に話すことも減っていた。それは祖母が僕のためにしてくれることが原因であった。祖母は僕に会うたびにお小遣いをくれる。それは嬉しかった。僕を想ってくれる気持ちを感じられた。そして、そのお小遣いで何を得られるかも分かっていた。だから嬉しかった。僕はそれが嫌だった。
 祖母に会ったときに感じる嬉しさに、お金をもらえることによる嬉しさが混ざってくるのがたまらなく気持ち悪いのだ。祖母に愛想良くすることで、喜んでもらえることは嬉しい。しかし、それがまた僕にお小遣いをあげたいと思うことに繋がることも知っていた。ただ祖母が好きで愛想良くする気持ちを自分で疑い出した。「僕はお小遣いをもらうために愛想良くしているのではないか」。そんな疑念が頭をよぎる度に、僕の中の一番大切な何かが汚れていくような感覚に侵される。それは他のどんなことよりも僕を悲しい気持ちにさせた。僕はもう、お小遣いを貰いたくなくなった。しかし、目の前で差し出されると、祖母の心の奥にある愛情や優しさ、僕を喜ばせたいという気持ちを踏み躙ることも出来ず、苦笑いをして貰うしかない。その頃の僕にはとてもその気持ちを伝えることは出来なかった。そうして、僕は祖母からお小遣いを貰わないために、祖母を避けるようになっていった。世界は少し、悲しく難しくなっていた。

 大人に近づき、汚れに慣れる度に、世界との一体感は薄れていった。それが心の奥底で常に僅かな悲しみを降り積もらせた。

 大学生になり、僕は色々なことが悲しかった。生きる時間に味がしなくなっていた。やがて死を考えるようになった頃、こっそり一人でヨットに乗り込んだ。誰も僕が船を出したことを知らない。絶対にやってはいけないと言われていること。しかし、僕はどうしても一人きりで世界を感じたかった。そして、もしかしたら自然が僕に抗えない終焉を与えてくれるかもしれないと、心の片隅で期待していた。
 11月の北海道、強く吹き付ける風は冷たい。ヨット部として活動してきて、操船に慣れているとは言え、水の上ではいつ何が起こってもおかしくない。そもそもヨットというのは熟達しても簡単に転覆するものなのだ。
 船体を載せた代車を引いて湖の砂利浜を降りてゆく。一人では重い代車が、一人で船を出す緊張感で余計に重く感じる。その重さを振り払うように顔を上げて一歩一歩に力を込める。水際に立つと、目の前には風に当てられて白波を立てる湖面。それを取り囲むように聳える、まだらな山吹色と深緑に染まった山々。巨大なしかめっ面が僕を見下ろしているようだ。その上には灰色の分厚い雲。空から僕を押さえつけようとしている巨大な手のようだ。
 水に足を入れると、痛いほどの冷たさが1秒遅れて突き刺さる。帆が強風に煽られてバサバサと騒がしい。風波に揺られてぐらぐらと不安定な船体を両手で押さえ込み、意を決して飛び乗る。ロープを引き込んで帆を固定すると、風を孕んで膨らむと共に帆が静かになり、その力で船体が一気に横に傾く。倒れないように体重をかけてグッと押さえ込むと、スーッと船が前に走り出す。船体に腰掛けて、ロープを激しく出し入れして帆の角度をコントロールしながら、上半身の体重移動で船の水平を保つ。速度はどんどん上がり、時に波を切り、時に波に持ち上げられて水面に叩きつけられながら、船は湖の奥へ進んでゆく。
 夢中になって、風や波のリズムに自分を重ねて疾走する快感に身を委ねる。徐々に自分という存在が遠く小さくなってゆく。自分が消えるほど、心の底から楽しさが爆発的に湧いてくる。久々の感覚だった。楽しさが大きくなるほど、世界は良く、生きることは良くなっていく。僕はしばらくの間、ただこの世界に在ることに熱中した。
 ふと後ろを見ると、いつの間にか岸辺は遥か彼方になっている。「もし今転覆して船から引き離されたら死ぬかもしれない。ミスは許されない」。ロープを握る手は強ばり、動きはぎこちなく、背筋が冷たくなる。楽しむ心は蝋燭の火が吹き消されたようにフッと消えた。「僕がミスをしなくても、万が一船が壊れたり、怪我をしてしまえば危機は避けられない。大自然はほんの僅かに力を込めるだけで僕を捻り潰すことができる。僕がここにいることは世界中で誰も知らない。助けを呼ぶことも出来ないし、偶然人が通りかかることもない。僕の命は完全に僕次第で、それ以上に、僕がどう抗おうと自然や運次第で命運は尽きる」。武者振るいが起こる。たまらなく恐ろしかった。そして、それが嬉しかった。僕の命は完全に僕次第だった。何が起きても自分で対処するしかない。絶対に誰も助けてはくれない。万が一の時はただそれまでなのだ。生まれて初めて、自分の命の全責任が僕に委ねられた。その瞬間、雷が落ちたようにある感覚が僕を貫いた。

「僕は完全に自由だ!」

 自分でこの命に全責任を負うからこそ、完全に自由なのだ。安全や安心感を得るのはいいことだと思っていた。誰かに守ってもらえることは幸運なことだと思っていた。しかし、誰かに自分の命の責任を担ってもらう度に、自由も一緒に奪ってもらっていたのだ。僕は生まれて初めて完全な自由を味わった。波打つ水面も、聳える山々も、分厚い曇天も、厳しく吹き付ける風も、僕を温かく包み込んでいた。そして、それらとの境目が分からなくなっていった。ただ、それらと共に夢中になって踊り、叫んだ。いつの間にか涙が溢れていた。自分を委ねることがたまらなく楽しく、幸せだった。その時の感覚は、最初の記憶の中で祖母に抱かれて雪を見た時や、森の中で世界に溶けた時に似ていた。
 帰り道、僕はまた悲しみに囚われて車を走らせた。しかしその翌朝、日の出の光が部屋に差し込むと同時に、僕は生きることを決めた。そして、旅に出ることにした。

 旅は僕にたくさんのものを見せた。その度に、僕の中にあった貧弱で怯えているがゆえに頑なで虚勢を張った思考が、ついに居場所を失い、その幻想であることを認め、一つまた一つと僕の中を去っていった。時間をかけて名付けたものや、定義したもの、決めつけたことが、徐々に溶けて、目の前のものは、ただあるがままに目の前のそれになっていった。世界は良かった。そうして僕は6年間の旅を終えた。

 世界に答えは一つもなかった。答えのない世界は美しかった。
 日本に帰る頃、僕は美しい世界や全ての人々に伝え切れないくらい感謝していた。胸がいっぱいでいても立ってもいられなかった。そして「一人でも多くの人を幸せにしたい」。「僅かでも世界を良くしたい」。と思い、会社を立ち上げて様々な活動を始めた。そして僕はまた、たくさんのものを見た。自身の能力の小ささ、人の心の深く複雑であること、欲や、裏切りや、孤独や、悲しみ。ただ、旅をして、人に出会い一期一会に感謝しては去る日々とは違う学びであった。また、心に汚れが忍び寄り、少しずつ悲しみが入り込んできた。
 しかし、事業に失敗し、会社を何度も潰し、書き出した本は完成できず、ホームレスになりながらも、世界は美しくあり続けた。裏切られながらも、人は美しくあり続けた。何も恨む必要はなく、世界はそれで良かった。
 たくさんの人に助けられ、泊めてもらい、食事を与えられ、講演の機会をいただいた。僕はただ助けられて生きていた。完全に助けられ、自分の力など微塵もないちいさな存在だった。自分の自由などなかった。それは幸せなことであった。思えば、湖の上で一人で叫んだ時も僕は自分で自分の命に全責任を負ってなどいなかった。完全にこの世のあらゆるものに助けられていた。僕は常に、完全で自由であり、完全に不自由なのだ、そしてそれは限りなく幸せなことなのだ。

 僕はこだわりを捨てた。世界や人を想って生きることに変わりはない。しかし、何かを愛することに貴賎はない。ただ、愛したいように愛し、生きたいように生きる。相変わらず大きな志を抱いて全力で目指し続ける。しかし、それはたまたまそれが僕にとって最も心地よいものだからだ。人に凄いと言われることがある。しかし、僕はそれがあまり好きじゃない。敬愛の情は温かく心地よい。しかし、その言葉は距離を作り、僕を寂しくさせる。その言葉を言ってくれる人と、僕は何も変わりがないというのに。きっと僕が世界や人を好きな気持ちは、人々が趣味や好きな物語に熱中する心と変わりがない。母親が子どもを想う心に敵わない。両親や祖母が僕を想ってくれていた心には敵わない。僕は世界中の誰とも何物とも変わりがない。だから、「凄い」という言葉で距離が作られるのは寂しいのだ。

 祖母が亡くなってから、祖母は小学校に行きたがっていたということを知らされた。樺太で生まれ、時代とロシアに追われて北海道に移り、幼くして働き始めた祖母は小学校にも行けなかった。その力で母を育て、僕が生きる環境を支えてくれた。僕が知っている祖母は、自分のことなど考えずに、毎日山に入り、芝を刈って、重労働に耐えながら家族を支え続けた。稼いだお金は全て子供や孫のためにとただ貯めていた。そのおかげで僕は何不自由なく育ち、大学まで出て、世界を見て周るということさえさせてもらえた。両親もたくさんの苦労を超えて僕を育ててくれた。祖母は大学に行くことは想像できないくらい凄いことだと思っていたかもしれない。しかし、祖母にも両親にも、僕は遥かに敵わない。そして、世界中にそうした素晴らしい人が溢れている。僕はなんとか、世界中の全ての人と同じくらい素晴らしい人間でありたいと想う。そして、そうした人々と良き友で在りたいと願う。

 もしもこれからご縁のある人がいれば、良き友として接してくれたら嬉しい。そしてお互いの、心の中の旅路について語り合えたら嬉しい。

 ありがとう。

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世界に答えは一つもなかった。
答えのない世界は美しかった。

第七の旅

旅での出逢いは奇跡のような巡り合わせで与えられ、美しく、教訓に溢れた、最も価値のあるものです。そんな出逢いを通して得た、かけがえのない学びを。命の際で触れた本質を。

第七の旅

『第七の旅』目次
第零章
サハラの月
子供の夢
物乞いと、命の使い道

第一章
ニュージーランドの朝日
ブラジルブラザー
全身刺青の男
日本の罪
文化の洪水
牧場の小さな先輩
ワイルド教育
水中の死闘

第二章
命懸けの職探し
地獄へようこそ
野犬の目
オージーライフ
世界で一番楽しい仕事
バナナが教えてくれた日本人

第三章
サンダンスの儀式
聖なる木が立ち上がる
犬の声と頭蓋骨
祈りと友情
この世に生まれ落ちる
ヴィジョンクエスト
インディアン
インディアンの兄弟

第四章
入国狂想曲
資本主義と共産主義
地中海のおじさん
死の蔓アヤワスカ
幻の古代文明
エジプトの誇り
アラブの賢者
エルサレム群像
人類発祥の地へ
猛毒カメレオン
星空天井
スラムの隣人
シバ神の夜に
ヒマラヤに還る

終わりに
世界を旅して見えた物
日本縦断
感謝
小さな存在

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世界には、七つの方角がある。
東西南北で四つ、上下で六つ。
では、もうひとつの方角はどこにあるのだろう。

第七の方角は、大いなる神秘によって隠された。
準備のできた者だけが、辿り着ける秘密の場所に。

その方角は、すべての中で最も強大な力に満ちている。
その方角は、すべての中で最も偉大な知恵を秘めている。
その方角は、あらゆる探し物を見つけだせる。

第七の方角はどこにあるのだろう。

それは、一番近くて遠いところ。
あなたの心の中にある。
内なる世界へ向かう、最も神聖な方角なのだ。
          
アメリカ・インディアンの伝承より

『第七の旅』本文より

『第七の旅』は、6年間、世界2週の旅を、7年かけて書き上げた本です。
命懸けの放浪を擬似体験しながら、学びを得ていただけるように。
色々なことを感じ、気づきを得ていただけるように。
人生の変化のきっかけにしていただけるように。

そう願い、魂を込めて書きました。
読んでいただければ幸せです。

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