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子供の夢

 「宇宙飛行士になりたい」幼い頃、初めて将来の夢を聞かれた僕は、そう答えていた。誰も見た事のない世界を見てみたい。誰も成し得なかった事をしてみたい。この世のすべてを知りたい。そんな純粋で幼稚な夢を持ったまま、大学入学の春を迎えていた。宇宙開発に関わる勉強ができるという理由で選んだ大学。しかし、どうしたら宇宙飛行士になれるのか、そのためにどんな努力をしなければならないのか、そういった事は全くわからない。工学部だけれど、機械にもエンジンにも航空力学にもあまり興味がない。僕はただ宇宙に行ってみたいだけなのだ。どこかリアルに人生を考え切れないまま、この場所に来てしまった違和感があったせいか、入学式は寝坊して遅刻した。
 初めての一人暮らしも、新しい友達と過ごす時間も、今までにない自由な生活も、とても楽しかった。勉強に加え、初めてのバイト、入部したヨット部でほとんどの時間を使ってしまう。忙しくも充実した日々であった。
 僕は、大学から始めたヨットに夢中になった。陸上での生活から離れて大海原に出る瞬間の胸の高鳴りは、宇宙に行ってみたいと思う僕の心の一部を満たしてくれていたのかもしれない。
 そんな大学生活を通して、高校生までは考えられなかった「人生」について、僕は深く考え始めた。大学にいるうちに、生きる道を選択しなければならない。本当に宇宙飛行士を目指したいのか、それはどれくらいの可能性でなれるものなのか、もしなれたとしたらどんな生活になるのか。そして夢が実現した後の人生はどんなものになるのか。

 大学二年生のある日、ヨット部の合宿中に母から電話がかかってきた。電話越しに泣き声が聞こえる。「今すぐ帰ってきて、お父さんが出て行っちゃう」声が震えている。ただ事ではないと思い、すぐに合宿所を飛び出して、暗闇の中車を走らせる。高速道路の街灯が飛ぶように後ろに流れてゆく。次々に流れ去る光に呼応するように様々な考えが浮かんでくる。
「何があったのだろう」
「大丈夫だろうか」
 これまで、幼い頃から両親が喧嘩をしているところは見た事がなかった。口論も、愚痴すらも一度も聞いた記憶がない。子どもの頃を思い出すと、絵に描いたような幸せな家庭だった。車を走らせる僕に、微塵も動揺がないのは、電話の中の母の言葉にあまりにも現実味がなかったからだろう。
 実家に到着すると、本当に父が出ていくという。去って行く背中を見送りながら、あまりにも突然の事で何も感じられない。自分だけが冷静でいられる家の中で母や妹に言葉をかける。理路整然と、勇気付ける言葉や、安心させるための言葉がスラスラと出てくる。しかし、自分はそこにいない第三者のような心地だった。
 夜が明けて、自分が住んでいる部屋に帰るために車に乗り込む。「家族は大好きなはずなのに、なぜこんなに冷静でいられるのだろうか。…きっともう大人になって一人暮らしをしているからだろう。子どもの頃だったらどれほどの衝撃だったか想像もつかない。強くなったな」そんな事を思いながら、約三時間の道のりを走る。
 部屋に帰って、当時付き合っていた彼女に電話して会いたいと伝えた。今回の事を伝えなければならない。家族は別々になってしまったけれど、今の自分は一人暮らしをして、新たな家族のように信頼し合える人がいる。きっとだから余裕があるのだろう。
 部屋に来た彼女は、僕が話をする前に「話したい事があるの」と切り出した。そして、「もう別れよう」と言い残して部屋を出て行った。再び、あまりにも突然に去って行く背中を見送りながら、何も感じられない僕がいた。
 しかし今回は、自分の心を客観視している僕を、さらに客観視している僕がいる。そこから眺めると、何も感じないように心を止めようとしていても、心はそのままの色や形では止まらずに、ゆっくりと、暗く、冷たく、縮んでいくのが見えた。

 それまで、僕は孤独というものを体験した事がなかったのかもしれない。あまりにも恵まれていた。一日、また一日と過ぎるにつれて、じわじわと心が冷たくなり、灰色の渦に巻き込まれていくような感覚に襲われていた。

今まであった幸せな家庭は、過去のものになってしまった。
あの幸せな時間は偽物だったのだろうか。
僕には新しい信頼関係ができたと思っていたけれど、勘違いだった。
愛情とはなんなのだろう。
安心して、信頼出来る関係性など存在するのだろうか
人が愛し合うことは、すべて偽りなのだろうか。
もう帰る場所はなくなってしまった。
これから行く先も特にはない。

 目標が定まらず、意義を見いだせない大学の授業には、やる気が出ずに苦戦していた。バイト先には、僕のあまりの仕事の出来なさのせいで居場所がなくなっていた。それらが重なって、表面上は明るく振る舞いながらも、心は絶望に満たされていった。やる気が出ず、胃炎が慢性化し、眠れない夜が増えていった。
「生きていることが辛い。もう生きていなくてもいいのではないか」
 いつのまにか、本気でそんなことを思うようになっていた。

 そんな日々が半年ほど続いたある日、僕はいつものように眠れない夜を過ごしていた。暗闇の部屋の中、まっすぐに天井を見つめる。胸を中心に、冷たい灰色の渦が全身を包み込んで、心は凍りついたまま沈んでゆく。もう時間の感覚もない。
「もう終わりかな」
 無感情のまま、何気なくそんなことを思っていると、窓の外が徐々に明るくなってきた。鳥の声が響いてきて、窓から光が差し込む。代わり映えのない、いつもと同じ朝。しかし何かが違っていた。差し込む光と共に、言葉が頭の中で響いてくる。
「生きていても、死んでいても同じじゃないか」
 その瞬間ハッとした。確かにその通りだ。

 生きている「今」が苦しいからと言って、死んだ後が楽である保証はどこにもない。もし、死んだ後も苦しければ、そこからまた逃れようとするのだろうか。いつまでもそれを繰り返すのか。それでは永遠に苦しみが続くだけではないか。逃げる心が地獄を作る。死後の世界は分からない。分からないことに頼るよりも、僕にできることがあるのではないか。
 逃げずに「今」と向き合うしかない。今この瞬間に苦しみを感じているのは、僕自身の選択の結果なのだ。生きていても、死んでいても関係ない。「今」に僕が責任を持ち、「今」をいいものに出来なければ救いはない。この世界は「今」の連続でできているのだから。

ならば、
生きているうちは生きて、死んでいるうちは死んでいよう。
今生きている状態ならば、生きていればいい。
まず生きると決めよう!

 そう思った瞬間、太陽の光が体の中に入ってきて、体の中を温かいものが巡り始めた。
 議題は変わった。「生きるか死ぬか」ではなく「生きると決めた世界で、どう生きるか」だ。歯車の噛み合わせが変わったように、連鎖的にネガティブになっていた思考が、一気に上昇して好循環に入ってゆく。あらゆるものがシンプルに見えてくる。どうせ生きるなら、幸せに生きよう。いい人生にしよう。今までの僕は、ただ幸せを欲しがって与えられるのを待ち、与えられなければ拗ねていた。そして、終いにはその存在を疑っていた。幸せは待つものでも、存在を証明すべきものでもない。自分の手で創り出すべきものなのだ。

 では、どうすれば幸せを作り出せるのだろうか。この半年間、生きる意味を考え続けて、ようやく解った事がある。こういう類のことは思考を使ってはいけない。「生きる意味」や「幸せとは」などという宇宙の真理に直結するような問いに本気で答えを出そうとすれば、宇宙の全てを理解しなければならない。僕の貧弱な思考力で解くことなど出来るわけがない。脳の限られた電気信号による思考を使って、その電気信号を包括しつつ、無限に広がる全宇宙の事象を理解できるとしたら、それは大きな矛盾になる。
 思考を使って真理を目指せば、思考の限界の崖っぷちに自らを追い詰めることになる。崖の先端に立てば、その足元に深淵を覗き込むことになる。絶望である。

 思考をしようとしまいと、ここに自身の存在があり、命がある。真理は理解できなくても僕は真理の一部なのだ。思えば、子供の頃から自分自身を生かしてきたのは「意味」ではなく「喜び」であった。それは説明もできず、ただ感じるもの。自分の意思とは関係なく、どうしようもなく感じてしまうものであった。ここに答えがあるのではないか。
「考えるのはやめて感じよう」
 体の中に入ってきた朝日が、徐々に体の中を満たしていった。

 それから、感覚のままに生きることにした。欲を満たし、楽しいと思うことをして、言いたいことを言った。時に快楽に満たされて、自分が得をして、好きなだけ遊ぶのは楽しかった。しかし、そうして感じられる幸せには限界があるように思えた。それどころか、同じことをしてもどんどん減っていくのだ。
 それから心を観察し続けると、僕のせいで誰かを傷つければ、痛みを感じることに気がついた。逆に、人が笑顔になったり喜んでくれる瞬間には何よりも大きな喜びを感じた。自分が得をしなくても、心が満たされるのだ。そして、その幸福はどこまでも広がっているように見えた。

人の喜びが、僕の喜びになる。
ならば、どう生きようか。



 研究室に配属され、卒業研究の内容が決まった。宇宙ステーションなどの閉鎖空間を想定して、酸素を循環させるための光合成微生物の培養や光合成に適した流体環境の研究だった。宇宙空間で人が生きるとはどういうことなのかを考える日々。この研究を通して、僕がつくづく感じたことは、人が生きるためにはあらゆるものが精密なバランスで循環し、全てがリサイクルされなければならないということだ。吐いた空気も、飲み水も、食べ物も、吐き出して循環して戻ってこなければならない。
 そう考えると、宇宙ステーションだろうと、月や火星だろうと、人が生き残るための環境をデザインして構築することは、恐ろしく緻密で繊細な作業である。そしてもし、そんな神業が行えたとしても、それを持続する上での問題も山積みで、そこに生きる人々は常に命の危機と隣り合わせで過ごすことになる。

 そんなことを考えていたある日、僕はあることに気がついて驚愕した。
「人に適した環境を考えるために、人を観察し、最適な環境をデザインする」
 それはあまりにも愚かな行為なのではないか。

 人間より先に、宇宙が生まれ、地球が生まれた。地球の自転や公転、大きさと質量、太陽との距離、月の満ち欠け、地熱の量、磁場の状態、海や大地や大気を構成する成分。大気や海の循環ルート。その他あらゆる奇跡的な条件によって生命が誕生し、生態系が育まれた。生き残れたのは、地球の環境に適応して進化しながら、複雑な生態系の一部としてバランスを取り続けられたものだけだ。
 つまり、人間の体を理解しようとしまいと、僕らにとって地球以上に適した環境がある訳がない。人間のほうが地球に合うように進化してきたのだから。地球を無視して人間を観察し、人間に適した環境をデザインしようというのは愚かであった。

 しかし、もしも地球以上の環境があり得ないとしたら、よく言われる「地球環境の悪化に備えて宇宙に生存環境を創る」というのはおかしいのではないか。地球の環境の悪化は人類が自ら引き起こしていることであり、破壊をやめれば解決できる。宇宙空間に生存環境を創るよりも遥かに簡単なはずだ。すでにあるものを、そのままにすればいいだけなのだから。遥かに簡単な「維持」ができないまま、圧倒的難易度の「創造」をしようというのは矛盾なのではないか。

 僕らは地球の奇跡的な環境を蔑ろにし、人類規模でそれを破壊しながら、世界最高の頭脳や莫大な資金を使って、宇宙空間で人が生きられる仕組みを作ろうとしている。しかし、我々が先にやるべきなのは、この地球の素晴らしい環境を維持するための努力なのではないだろうか。そして、それはとてもやりがいがあり、多くの人の幸せに繋がる仕事なのではないか。
 
 そんなことを考えた結果、僕にとって一番やりたい宇宙開発は、「地球のエコシステムの維持」になった。そのために出来る最善はなんだろう。海も森も空気も生命も、世界中で繋がってバランスを保っている。あまりに複雑で、全てを把握して対策を打ち出せる人間は世界に一人もいない。ましてや僕などにやるべきことが分かる訳がない。ならば、まずはこの目で見てみようじゃないか。地球中を旅して、思う存分に考えよう。思えば、そんな探検が宇宙飛行士としても一番やりたかったことなのだ。

 その瞬間、「宇宙飛行士になりたい」という夢が叶ってしまった。今の僕は、「この宇宙に飛び出して、どれでも好きな星を選んで降り立っていい」と言われれば、迷わず地球と答える。宇宙の中で最も美しく神秘的な最高の行き先だ。僕はもうすでに、宇宙で一番行きたい星に来ているのだ。

「もう死んでもいい」
 そう思っていた自分にとって、リスクや不安は全く障害にはならなかった。失うものなど何もないのだ。ただ、人の笑顔や自然環境のために最大限の挑戦ができれば幸せなのだ。しかも、それが子供の頃からの夢の実現でもある。こんなにありがたいことはない。
 
「どうせ死ぬなら、最高の方法で命を使ってやろう」
「どうせ生きるなら、最高の方法で命を使ってやろう」
 そうして僕は、世界中を旅することに決めたのだった。

第七の旅


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