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物乞いと、命の使い道

 全身に押し当てられる空気は、呼吸がしにくいほど蒸し暑い。甲高い声が飛び交い、スパイスやハーブの香りが漂う。雑多なビル群の間、色とりどりの車やバイク、トゥクトゥクがめまぐるしく交差してゆく。歩道には祭りの縁日のような露天が並ぶ。食べ物や、衣類やバッグ。そこをゆく人々も鮮やかで活気がある。バンコクは絵具をぶちまけたようにカラフルな街だ。
 ここは本当に蒸し暑い。気温だけでなく、心に直接触れてくる熱がある。今を生きている人々が発する熱だ。日本では多くの人が未来のために今を売り渡す。未来から今にかけて熱を長く薄く引き伸ばす。今に発する熱は低くなる。しかし、ここの人々は目を爛々とさせて、今に命を燃やしている。
 僕は圧倒された。圧倒されながら、僕の心の奥底からもふつふつと熱が湧いてくるのを感じる。この街の空気に当てられたのだろう。余裕のなさが、僕の未来を吹き飛ばし、今に没入させる。そうして世界を見ると、あらゆるものがより鮮やかに映る。新しいものを見る度に好奇心が膨らんでゆく。そしてここには、その新しいものが満ちているのだ。世界とはなんと面白いものなのか。僕は初めての海外に対する恐怖などすっかり忘れて、新しい世界に夢中になっていた。

「私の故郷に一緒に行かない?」
 大学の研究室。味気ない部屋に実験器具が並ぶ部屋。窓の外には木々の緑が揺れている。聞こえてきたのは留学生の女の子の声だった。顔を向けると彼女はニコニコしながら続ける。
「私はもうすぐタイに帰るから。いいアイディアじゃない?」
 彼女はタイ出身で、あだ名はプイと言った。いつも笑顔で愛嬌がある。聡明だがドジなところもあり、いつもみんなを和ませている。僕は彼女を心から尊敬していた。一人で日本に来て、完璧でない日本語で大学の授業を受けているのだ。大学卒業を目前にして、一度も海外に出たことがない僕にとって彼女は勇者だった。
 ここに来ることはどれほど大きな決断だっただろう。そんな彼女に、日本にき来たことを絶対後悔してほしくない。僕は何かあれば手助けをしたり、どこかに車で連れて行ったりしていた。
「先生や、他にも何人か友達が来てくれるの。色々なところに案内するわ。ねぇ、いいでしょう」
 大学を卒業したら旅に出る僕にとって、プイの故郷を訪れるのはいいスタートになるかも知れない。縁によって紡がれるなら、旅はいいものになるに違いない。
「いいね。君の故郷に行ってみたいよ」

 そうしてタイに来て、あっという間に時間が過ぎた。この数日、スタディーツアーと謳い、プイやタイに詳しい先生が色々なところに連れて行ってくれた。山の中を二日間歩き続け、竹でできた村に住む民族を訪ね、象に乗り、数々の遺跡を見て、壮大な仏教寺院を訪れた。それらの全てが僕に衝撃を与え、夢中にさせた。幸せな時間だった。

 そんな旅の終盤、僕らはバンコクにやってきた。僕は初めて見る景色に圧倒され、心を躍らせていた。街を歩きながら、目に映る全てが新鮮だった。
 ふと喧騒の中、灰色のボロ布に身を包んでやせ細った男がこちらに手を出しているのが目に入る。その顔は虚で生気がない。こんな悲惨な姿をした人は日本で見かけた事がない。よほどのことだと思い、隣を歩くプイを見ると、すっと無表情になる。いつもニコニコしている彼女の冷たい表情を見るのは初めてだ。「なにもしないで」と言われている気がした。「どういうことだろう」と考えが空回りするうちに、いつの間にか通り過ぎてしまう。振り返ると、その男は焦点も定まらないまま、空間に手を差し伸べ続けている。
 歩いているうちに、そうした物乞いを時々目にした。僕はその度に混乱する。渡せる分だけ渡すべきか、きりがないからと割り切って無視するべきか、思考が堂々巡りをしてまとまらない。しかしプイは、毅然として態度を決めているようだった。

 気まずい空気の中、何を聞けばいいのかわからないけれど、とにかく何か考えをまとめるきっかけが欲しい。藁にもすがる思いで質問を絞り出す。
「彼らは産まれた時から貧しいの?」
 プイはいつもほどの笑顔ではないが、さきほどの冷たさはすっかりなくなっている。
「そうよ。彼らは生まれたときから貧しい。タイでは輪廻が信じられているわ。前世で悪い行いをすれば貧しく生まれるし、良い行いをすれば裕福な家庭に生まれると考えられている。だから、あの人たちがあそこにいるのも自業自得で仕方のないことなのよ」
 予想外の返答に理解が追いつかない。彼女の冷たい顔はそれが理由だったのか。彼らは彼ら自身の前世の行いのせいでそこにいるのだから、同情の必要はないということなのか。困惑する僕を尻目に彼女は話し続ける。
「だから、良い行いをして徳を積むことが大切なの。あそこを見て。カゴに鳩を入れてる人がいるでしょう。あれはペットとして鳩を売っているわけじゃない。あの鳩を買う人はその場で逃すためにお金を払うの。鳩を助けたという良い行いで徳を積めるのよ。みんな色々な方法で徳を積もうとしているの」
 この土地での当たり前が、僕の目には不思議に見える。
「そうなんだ…。じゃあ鳩を捕まえて売っている人は、自分の徳を人に売っているようなもんだね」
「…確かにそうかも知れない」
 彼女は少し考えるように目線を落とす。
 輪廻によるものだから、貧しい人が貧しい生活を送るのは当然のこと。そうなのだろうか。いや、そうだとしても、そうでないとしても、手を伸ばす貧しい人に、僕はどう接するべきなのかが分からない。僕はどうすべきなのだろう。そんな、暗い問いがずっしりと重く心に残ったのであった。

 その問いを抱えて以来、僕は自分を情けない生き物のように感じるようになっていた。こんなにびくついて、自分の立っている場所に馴染めていない生き物はいない。足元を見れば、小さな蟻さえもその小さな触覚を小刻みに動かして新しい世界に触れ、必死で考えながら一瞬一瞬決断し確固たる決意を持って一歩を踏み出し続けている。人々においても、誰もがそれぞれの道を力強く突き進んでいる。
 プイはきっと、この国ではかなり豊かな方だ。これまでの人生で、どんな経験を経て彼女なりの方針を固めたのだろう。やはり、それがかっこよく見えた。物乞いを前にして、迷いなく施している西洋人もたまに見かける。彼らの顔を見ると、やはり迷いがない。余計なことは考えず、純粋に目の前の人を助けるのは当たり前だという振る舞い。やはりかっこいい。
 それがどんな行動なのかに関わらず、僕は何か明確な指針が欲しかった。彼らには、宗教というバックボーンがある。それを持たない僕は、きっと自分の内面からそれに変わる何かを見出すしかないのだろう。

 タイの旅も終わり間近となり、みんなと別れバンコクの街を一人で歩いていた。たくさんの車が行き交う大通りの真ん中に、太い支柱が並んでいる。頭上からのカタタン、カタタンという音に見上げると高架列車が走っている。BTSと呼ばれる綺麗で現代的な交通システムだ。駅も線路も高い柱に支えられて空中にある。駅からは歩道橋が伸び、地上に降りずに大きなショッピングモールなどに直接入ることができる。そこでは薄着だが綺麗に着飾った人々が優雅に買い物や食事を楽しんでいる。
 しかし、地上に降りると空気が一変する。道端には屋台が並び、排水がその辺に捨てられる。熱気とともに汚水の匂いが漂ってくる。毛の抜けた犬が徘徊し、人が道端で寝ている。あまりに異質な二つの世界が、たった一つの階段、薄い壁の一枚を隔てて存在しているのだ。
 タイにおける貧富の差は世界トップクラスだと言われている。確かに、目に見えて強烈な格差だ。天国と地獄が露骨に象徴されているようにさえ感じられる。輪廻、天国、地獄。目が回る。
 そして、街を歩く人々は誰もそんなことは気にしていない。当たり前なのだろう。僕にとってはその雰囲気も寒々しく感じられた。

 僕はまた、輪廻と格差について考え始めていた。とめどなく思考を巡らせながら歩いていると、小さな男の子が壁にもたれて地面に座り、懸命に手を出しているのが目に入る。8歳前後だろう。縒れて茶色い汚れの目立つ黄色いTシャツを着ている。彼は道を歩く人々をしっかりした目つきで追っている。よく見ると、その男の子には片方の足がなかった。プイが言っていたことを思い出す。
「物乞いの子供の中には、同情を引くために自分で自分を傷つける子もいるわ。あるいは、物乞いを管理しているマフィアが傷つけることもある。腕や足を切断してしまったりするのよ」
 その言葉と目の前の光景が繋がった瞬間、頭を打ち付けられるような衝撃が走り、涙が溢れてくる。「なんてことだ…」そして思考が制御を失い、物凄い速度で様々な言葉が僕の中を駆け抜けてゆく。

まさか自分で足を切ったのか。
万が一そうだとしたら、この子はどんな想いでここにいるのだろうか。
僕はこの子と同じくらいの歳の頃、何をしていただろうか。

あるいは、本当にマフィアがこの子を管理しているのか。
マフィアに足を切断され、ここに連れてこられ、施されたお金を巻き上げられているのかだろうか。
もしそうだとしたら、どんな気持ちでここに座り、人々を見ているのだろう。
僕はこの子と同じくらいの歳の頃、何を考えて生きていただろうか。

 僕は同時に、鳩を売る男のことを思い出していた。道端でお金を払い、鳩を逃すことで徳を積む。便利だ。徳のファストフードとでも言えるだろうか。人々が求め、それを供給する人がいる。そこにお金を払う人がいるから、彼は鳩を捕まえるという不徳な行いをする。ならば、お金を払う解放者が間接的に「鳩を捕まえる」という不徳を行なっているとも言えるのではないか。しかし、お金を払えば確かに目の前の一羽を助けることができる。全体解決を願って、今目の前にいる鳩を見殺しにするべきなのか。因果が巨大な車輪のようにゆっくりと確実に回っている。
 そして、目の前にいる子供がもしマフィアの手によってここにいるとしたら、鳩と同じことなのではないか。やはり僕にはどうするべきか分からない。

「分からないから」と、何もしなくて良いのだろうか。豊かな日本に暮らし「関係ないから」と、このような現状に無関心でいていいのだろうか。いや、本当に関係ないか。貧しいものは、豊かなものがいることで生み出される。世界中で「人」も「物」も「経済」も繋がる現代において、このような貧しい人々がいる原因の一端を我々も担っている可能性はないか。我々が豊かな暮らしを謳歌することで、世界のどこかで貧しい人を生み出してしまっているのではないか。だとしたら何をすればいいのだろう…。

 何秒くらい、ここに立ち尽くしていたのだろう。

 僕が一人、世界から取り残されている間も、世界は何食わぬ顔で動き続けている。そして、視線の先には現実に男の子が座っている。
 やせ細った手に比べて、まっすぐな力強い目。この目がこのまま歳をとると以前見た、灰色のボロ布を纏った男のように虚ろになってしまうのだろうか。横を通りながら、わずかなお金をカップに入れる。何の解決にもならないと知りながら、確固たる信念も持たずに。僕はそうして歩き去る自分を、その場で殴り倒してしまいたかった。

 歩きながら少し冷静さを取り戻した頃、僕はある妄想を始めていた。それは、もしもあの男の子が、日本の一般的な子供が与えられるものを与えられたとしたらどう生きるだろうというものだった。あのような境遇にあって、強い目を持って生きようとしている子供。それが自分で自分を傷付けたのであれ、マフィアにやられたのであれ、尋常ではない覚悟だ。しかしここでは、そこまでの気合を出しても、生き残るのがやっと。もしも、そんな覚悟を持って日本で教育を受け、全力で努力をすれば、どんな大きなことでも成し得るのではないか。自分の腕を切断するほどの覚悟を持って突き進めば、どんな分野でもトップを狙えるだろう。大富豪にでも、総理大臣にでも、何にでもなれる。あの男の子が、そんな地位を獲得していく、そして苦しんでいる人々を救っていく様を想像していた。
 そしてハッとする。それは、僕自身がやるべきことではないのか。具体的な道筋はわからない。しかし、日本に生まれた僕は、それを望めばできる環境にいるのだ。具体的に何になり何をするかは、これからの旅を通して考えれば良い。今は、目の前の出来事に対してどうすれば良いか分からなくても、必要ならば腕を切るくらいの覚悟で、僕は僕なりの努力を続け、いつかこの巨大な因果の輪を動かせるほどの力を持って、本当の意味で力になれる人間になりたい。

一瞬の出会いや、出来事が、人の生き方を永遠に変えてしまうことがある。
これが、終わりのない、心の中への旅の始まりであった。


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