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dousite自分は美術館に行くのか

僕は最近、美術館に行っていることは以前に書いたが、もうちょっと詳しく書いてみようと思う。

自分の大好きな絵を見ていると、なにか引っ張られる感覚がある。

それは主観である。もう前回の記事と重なっている部分と無視して書いていくが、これは本当にすごいと思う。

僕は大学生にしてはビジネスの現場にいた方だけれど、そこではそこで引力が働いている。

それはおそらく絵を見ているときの引力と逆な気が僕の中ではする。

それがつまり、主観と客観である。ではなぜそうなのか考えてみようと思う。

具体的なシーンで言えば、僕は話がわかりにくいと言われることがときたまある。

それはおそらく主観と客観の行き来がぶっとんでいるからだと思うのだが、こういった場合の対処法として別の力学が存在しているのではないだろうか(力学という言葉の使い方があっているのかは心配だが)。

ビジネスの場合では、もちろんこの話の分かりにくさという部分は矯正の必要がある。相手に要点をまとめて、簡潔に話すことが求められる(少なくとも僕の知っている範囲では)。

しかし、芸術に関してはどうなのだろうか。ここは正直、ものを捜索した経験が図画工作しかない身なのでなんとも言い難いのだが、もしかするとという前提で、この話のわかりにくさっていうのはむしろ差別化要因になるのではないだろうか。

つまり、それを直すのではなく、それを強みに変えていくのではないだろうか。

なぜか。

それは芸術は違うからいいと自分は思うからである。例えば、スーパーに並ぶ日用品のように画一化された作品が美術館に並んでいたらどうだろうか。それはなんともつまらないと書こうと思ったが、それはそれで面白いと思ってしまった。

それは一旦置いといて、そんな美術館はないのである。洋画でいたたら、モネはこうで、ゴッホはこう。そしてそれは、こんな時代背景や、過去があったからこうって話なのではないだろうか。

それを僕はこの文章では主観と呼んでいる。

つまり(何回つまるのかわからないが)、その人にしかできない作品こそが芸術では求められるのではないかと僕は思っているのである。

そして、その感覚が大好きなのである。

どうせやるのであれば、僕はこの地球上で自分だけにしかたぶん(絶対と書こうと思ったが、なんか重いので)できないことをやってみたいのである。

だから、自分のできないとこ、足りないとこが見つかってへこんだ時はそこもきっと大丈夫と慰めるために美術館に足を運ぶのである、

と、ここで終わろうと思ったが、ここまで読んでくださったらわかると思うが、主観と客観は対比で相容れないもののように書いたが実はそうではない。

境界はなく、むしろどちらの領域でも両方あるに越したことはない。

この部分はまた今度書こうとお思う。

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