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神社学的☆奇跡のような普通のこと

昨年の今時期、神社学の仲間たちと茨城県の御岩神社へご挨拶に伺った。

この日はまさに夏日、気温は33‐34度といったところだった。こうなると何より注意しなくてはならないのが熱中症で、僕らのご挨拶はいつも登拝によるものだけに、自身も含め水分の確保だけには最大限の注意をはらって御山に足を踏み入れた。

御岩神社は原初の神・クニトコタチノミコトを祀る古社であり、神社の背後の聳えるご神体山・カビレの山こそ、神々が降り立ち今もなお我々の暮らしを守り続けてくれている神奈備山。ある宇宙飛行士が大気圏外より地球を見た時に、一筋の光が柱のように空に向けて立っており、その地を後で確認するとまさにカビレの山のその地であったという話もよく聞くが、僕はその宇宙飛行士のことを存じ上げず、事の真贋は定かではない。が、御山に足を踏み入れてみると、うん、そんな話があったとしても何も不思議ではないと思えるほど、カビレの山には様々な命溢れる空間が広がっていた。

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麓の境内には神仏習合時代の名残がここそこに残され、大日如来や阿弥陀如来も大切にお祀りされており、明治以降の廃仏毀釈という国策にもめげず今もって神仏をともに大事にその懐に抱いている。本殿へのご挨拶をすませ、いよいよ山中にご鎮座するかびれ神宮なる奥宮に足を向ける。冒頭記述の通り、ここからが熱中症との戦いだった。

御山に入り、この山の豊かさに心を奪われる。

登拝路の脇を流れる小さな川にも多くの生き物が暮らしている様が見て取れ、多種多様な植物がまるで我々を包み込むように生い茂っていた。

そして時折キラッとひかる何かが登拝路の路面にあらわれ、腰をかがめよーく観察すると、金雲母のような塊がいたるところに存在する。おお、ってことは小川の中にも!? そう思い小川を覗くと、路面にまして光り輝く金雲母がゆらゆら光る。そこに灼熱の光が木々の間から差し込み、水面も光る。登拝路に足を踏み入れただけで、なんだか光り輝く道を歩くことになった。光の中を一歩一歩確かめながら歩いていくと、半刻もしないうちにかびれ神宮こと奥宮に到着する。そこは凛としたピリッとした空気感に包まれた厳粛な空間。あいかわらず天気は快晴。全身は汗だくになっているにもかかわらず、しばしその空間の美しさに心が奪われるほど。

一呼吸をおき、それぞれが自分と向き合う時間。
ひとり社殿の前に座し、心を込めて祈り始める。

祈る、って何に対して? とか、どうやって? とか聞かれることがある。僕は僕なりに心を込めて、自分以外の何かや誰かに思いを馳せることがひとつの祈りだと信じており、その方法や作法もさることながら、どれだけ本気でその気持ちになれるかということが大事なんじゃないかとおもっている。

そして「願う」と「祈る」は根本的に違い、求めてしまう「願い」ではなく、捧げる「祈り」に重きおいている。ま、自由にやらせていただいているわけだが、その分、本気で取り組んでいる大事な瞬間。

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あいかわらずの酷暑の中、額に滴る汗を拭きながら祈り、その気持ちを龍笛の音色にのせてご挨拶を申し上げた。

どのくらいの時間、献笛をしていたのだろうかわからないが、その終盤、笛を吹き終え仕舞い始めたころ、首筋にポツッと一粒の雨。え???? さっきまで茹だるような暑さの快晴の空が広がっていたのに! 

すると、一粒は二粒三粒どころか一気に押し寄せることとなり、社殿前から離れるころには激しい雨が降り始めた。いやいや、暑すぎたからこそ恵みの雨だし、火照った体を冷ますにはちょうどいい。でも、天気予報では雨の予報なんてなかったし、雨雲レーダーをみてみても、少し前までなかった雨雲が、かびれの山の上空だけに覆いかぶさっていた。他はどこも降られていない、ここだけの恵みの雨。同時に雲の切れ間から差し込む光が照らしだす空間はこの世のものとは思えない程美しく、激しく降る雨の筋に反射してキラキラ光る。雨の中、みながみな濡れながらもその光景に心を鷲掴みにされていた。

その後、ほどなくして激しい雨足は緩やかに、10分もするとまた酷暑の晴間が広がっていく。その時に雨雲レーダーをあらためて見てみると、先ほどまでの雨雲はどこにもいない。あるのは、濡れた服に身を包み、火照った体が冷まされた僕らだけ。

本当に不思議な時間だった。

山に足を踏み入れ、路面のキラキラした光に心奪われ、小川の中にもゆらゆら光る金雲母を探しだし、予想もしなかった雨にも降られ、その雨筋がまた光に反射しキラキラ光る。

この時期のあの時間、あの場所にいなければ出会うことのなかった光の連鎖と大地を潤す雨のお出迎えは、僕らにとっては奇跡のようなことだった。

けど、それはかびれの山では当たり前の事。自然界に金雲母があるのも、雨が降るのも、その雨に雲の切れ間から差し込む光が反射するのも、当たり前の事。つまり、僕らが奇跡としか思えない体験をすることは、自然界にとっては当たり前の事なんだ。そりゃそーかw 

そもそも僕らが生きていること自体が自然現象そのもので奇跡そのものなんだもの。奇跡のような普通の事。僕らは毎日、普通という奇跡に包まれて生きているんだって、、、、気が付けるかどうかで世界は変わる。

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