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企業PRのメディアとして、「動画」の次に「紙の本」がやって来る理由

『PR』の本質について考えるとても良い記事についてのメモ、後編。


>「企業のPublic Relations は社会へのギフトである」 PR映画から紐解く企業コミュニケーションのあり方——イベントレポート#12


きのうの前編の記事はコチラ↓


きょうは『企業のPR活動が社会で果たす役割』について。

結論から言うと、クラシコムの青木さんは、それは『ギフト』であると言います。

青木:企業が自社の顧客、あるいはその先にある社会とより強い結びつきを持って、「この会社は社会にあってほしい」と思ってもらえるためにすべきことって、“ギフト”だと思うんですね。

先に会社のほうが、社会やお客様、潜在的なお客様に対して何かプレゼントするっていうことがとても重要だな、と。

1950年代、『おやじの日曜日』が上映された時代はまだテレビが普及していない。おそらく映像作品をつくる会社が大規模に投資できる状態ではなかったので、コンテンツが不足していた。だから、会社が自前の予算で映像作品を提供するということがギフトだったんです。

例えばテレビCMの最も重要なプレゼントの要素って何があるのかなと考えた時に、好きなタレントさんを見せてくれる、ということじゃないかな、と。

動画というところに話を転じると、長年、動画マーケットは、高コストで質も非常に高い商業ベースのものと、質が低いわけではないけれど低予算でつくられたものとに二極化しているんですね。

なので、今この時期においては、おそらく製作費を抑えなくてよい企業が、パブリック・リレーションズの手段として、中間層を埋めにいくということに価値がありますよね。

企業ではなくコンテンツクリエイターや配給会社が、僕らがつくっているようなドラマを自分たちでつくり、しかも収益を上げるというモデルができれば、企業広報の一環としての取り組みは相対的に減っていくように思います。


引用中で取り上げられているように、たとえば『テレビCM』もPR活動の一種なわけですが、それがどういった面で社会へのギフトなのかと言うと『有名なタレントを見せてくれる』という点にありました。

いま以上にテレビに元気があった20~30年前では、いわゆる『有名人』と『一般人』の距離がとても遠い時代だったと思うので、画面を通して憧れの芸能人を見られることが、ものすごく社会へのギフトだったわけです。


だから言い換えれば、世の中の変化に合わせて企業に求められるギフトの内容も変わります。

それがいまでは、『まあまあお金をかけて作る、まあまあ質の高い動画コンテンツ』が社会へのギフトになるということで、クラシコム社はドラマを作ったということです。

(文脈上、便宜的にクラシコム社のドラマはまあまあという扱いになりますが、実際に見てみるともちろんとても質も高くて面白いです!)


なぜ『まあまあのコストでまあまあの質の動画』が社会へのギフトになるのかというと、動画業界では、『高コストで質も高い商業ベース』と『(質が低いわけではないけれど)低コスト』のものに二分されていて、その中間がゴッソリ抜け落ちていたからです。

前者の高コスト高クオリティは、映画とかTV番組、いまでいうとNetflixとかも入ってくるのかなと思います。

後者はYouTuberの動画などになるんでしょうか。

ただ、その中間層はいままでありませんでした。


動画コンテンツ制作を収益源にしているわけではない企業にとって、まあまあのコストをかけて動画を作るメリットがないからです。

ただ、一見メリットがないことをあえてやるから、受け手側も『なんでこんなメリットがないことをわざわざやってくれるんだろう』という感謝の思いに変わります。

そしてそれは、つまり受け手(=社会)へのギフトになります。

『自分(=受け手)は得だけど、作り手になにかメリットはあるのかな?』と思ってもらうことができれば、PRとして成功です。

だから逆に、これからクラシコム社の二番煎じがコストをかけて動画を作るという事例がどんどん出てくれば、受け手側も『あ、この手法はPRとして有効だからやっているんだな』と理解してしまいます。

そうなったときは、PR手法としてまあまあのコストをかけてまあまあの質の動画を作るという行為は終焉を迎えるでしょう。

ではその次はどうなるのか。

青木さんはこのように述べています。

明石:さて、そして2020年以降、企業コミュニケーションの主役になりうる「フォーマット(=様式美)」とは? というトピックスに移るわけですが。

青木:僕は、世の中に足りていないものを、収益を度外視してもギフトするのもパブリック・リレーションズだと思うんですね。個人的には、2020年以降は「紙の本」だと思っています。

今は電子媒体に流れていますが、電子で読みたいというよりは、紙でつくりにくくなっているという供給者サイドの都合があるだけで、需要サイドは変わらず雑誌を紙で読みたい、小説を本で読みたいというニーズが存在し続けていますから。

端的に言うと、『紙の本』ですね。

もう何年、何十年も前から『電子書籍』と『紙の本』の論争は存在するわけですが、

参考:「紙の本」はなくなるのか?

引用中にある『供給者サイドの都合』というのは、紙は原価がかかることを指してるんでしょうか。

なにはともあれ、これだけ電子書籍という存在が普及した現世でも、やっぱり紙の本が根強く残っているのは、一定層、紙で書籍や雑誌を読みたいという人がいるからです。

需要はあるのに、供給できていない。

これこそまさに『ギフト』が生まれる瞬間です。


この状況で、『紙の本』を作ることは『とってもありがたいけど、利益的にちゃんとやっていけてるのかな?作り手側のメリットはなんなのかな?』という心理状態にまっしぐらに突き進むことを意味します。

先ほどの動画のときと同じですね。

そういった点で、青木さんは次にくるギフトの形は『紙の本』であると答えてるのだと思います。


今回参考にした記事のタイトル前半、「企業のPublic Relations は社会へのギフトである」、とても示唆に富む一言ですね。

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